最終章 春と雪

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「おかえり、雪」 「ただいま、春」 やっと、やっと雪が帰ってきた。 * * 「雪、疲れたでしょ?なんかあったかい飲み物持ってくるから、座ってて」 雪の手を引いて部屋に入り、そう伝えたところでハッと気付く。雪はリュックを背負ったまま、あのソファーを見つめた。 あの日のことが頭をよぎる。雪の怯えた顔。雪の震えた声。雪が帰ってくる前に処分しておけばよかった。「雪」と声をかける前に、雪がこちらを振り向いた。 「春は…」 「ん?」 「春は、その、…俺と、セックスしたいって、思うん…?」 「…え?」 まさか雪がそんなことを聞くなんて。 どう答えたらいいんだろう。頭の中がぐるぐると回る。俺の答え次第では、また雪を怖がらせてしまうかもしれない。せっかく帰ってきた雪がまた出ていってしまうかもしれない。でも、まっすぐに俺を見つめる雪に、嘘はつけなかった。 「したいよ」 「雪を抱きたい」 正直に自分の気持ちを伝えたかった。 「でも、雪がしたくないならしない。あんなことしといて説得力ないかもしれないけど、雪が嫌なら一生しなくてもいい」 「春…」 「俺は雪がそばにいてくれれば、それだけで幸せだから。だから怖がらないで、安心して、ずっとここにいてほしい」 赤い唇をきゅっと結んで、キラキラと瞳を潤ませて。そんな顔で見つめないで。「一生しなくてもいい」と言ったばかりなのに、今すぐ雪を抱きたくなってしまう。 「雪、お腹空いてない?なんか食べよう」 決心が鈍らないうちに、そう言ってキッチンへ逃げ込んだ。 * * 雪が帰ってきて数日がたった。 蒼佑くんや笹原さん、そして律さんには雪と一緒に帰ったと連絡を入れたけど、まだ会いには行けていない。雪には雪のタイミングがある。雪が会いたいと思ったときに会いに行けばいい。 あのソファーはこのリビングに置かれたままで、雪も今まで通りそこに座ってくつろいでいる。 良かったと安心する反面、どうして雪はあんなことを聞いたんだろうかとずっと考えていた。 『俺と、セックスしたいって、思うん…?』 ぼんやりとあの日の雪の顔を思い浮かべていると、テーブルに置いてあったスマホが震えた。 「あ、雪のか」 雪は今お風呂に入っている。どうせ(こう)からだろうとそのままにしていたけど、なかなか電話は鳴り止まない。ダメだとは思いながらも、そっとスマホに手を伸ばした。 「あきと先生?」 スマホの画面には“あきと先生”と表示されていた。あきと先生って誰だっけ。聞き慣れない名前だ。だけどこの名前を知っている。会ったことがある。そう思った。 「あっ、」 もしかして、と思い出したのと同時にプツリと電話が切れた。 「雪。おいで」 お風呂上がりのまだ髪が濡れている雪を足の間に座らせる。ドライヤーの風をあてると甘いシャンプーの香りが広がった。 「できた」 「ありがと」と振り向いた雪の唇にキスをして、そのまま雪の手を握った。 「雪。彰人(あきと)先生から電話がきてた」 「…え?」 「彰人先生って、隼人(はやと)くんのお兄ちゃんだよね?」 「雪、どこか、体調悪いの?」 俺の言葉に雪の瞳がぐらっと揺れた。 まさか、何か病気?俺には言えないような…?背筋に冷たいものが走って、ぐんぐんと血の気が引いていく。 「ごめんね、俺、何にも気付かなくて…、」 「あ、違う、違うの」 慌てた様子の雪がぎゅっと手を握り返してくれる。細く長い指に薄い手のひら。だけどとても暖かい雪の手。 「春…、あのね…」 「雪。ゆっくりでいいよ」 自分を落ち着かせるように、ふぅ、と息吐いて、雪は話し始めた。 「…高校生のときにね、性感染症の検査を受けたの」 「性感染症?」 雪の口から出たのは思ってもいなかった言葉で、ピタッと体が固まってしまった。そんな俺の反応に雪はきゅっと口を結んだ。 不安にさせてしまっただろうか。乾かしたばかりのふわふわの雪の髪をそっとなでる。雪から香るのは俺と同じ匂い。 「雪。大丈夫だから、続けて?」 うん、と小さく頷いて、雪は続けた。 「その、高校生のときにね、先生からちゃんと、話聞かなかったの。蒼佑くんが代わりに聞いてくれて、それで、蒼佑くんから大丈夫だったって、そう聞いただけで」 こくん、と雪の喉が鳴る。雪の手が冷たい。雪の不安が、緊張が伝わってくる。 「春が、セックスしたいって言ってくれたの、嬉しかった。でも、もしかしたらって。もし春と…その、セックスして。もし、春に何かあったらって…。自分のせいで、春が病気になったらって…。そう考えたら、すごく怖かった」 「やから彰人先生に相談したくて…。そしたら時間とるねって言ってくれて。それで、連絡待ってた…。黙ってて、ごめんなさい」 「…うん、そっか。そうだったんだね」 「ごめんなさい。春…」 「ごめんなさい」ともう一度口にして、雪は俯いてしまった。謝らなきゃいけないのは俺の方なのに。 「謝らないで、雪。ほんとは俺がちゃんと考えなきゃいけなかったのに…」 俯いたまま、雪は弱々しく首を振った。 「ごめんね?ひとりで悩ませちゃったね。今こうして俺に話すのも、隼人くんのお兄ちゃんに話すのも、すごく勇気のいることだったでしょ?」 雪の頬に手を添えて、その顔を上げさせる。赤い唇は少し乾いてカサカサしている。小さな顔に大きな紅茶色の瞳。どこをとっても雪は綺麗で、この美しい人を自分だけのものにしたくてただただ必死だった。 「雪。俺も一緒に彰人先生に会いに行ってもいい?」 「え?」 大きな目をパチパチとさせる雪。 「いや?」 「いややないけど…。でも、もし、なんか、病気やったら…」 「そのときはちゃんと治療してもらおう?ごめんね、俺、先生みたいに病気治したりはできないけど、でもずっとそばにいるから。雪のことは俺が支えるから」 * * 「こんにちは。いらっしゃい」 診察室に入ると白衣を身に纏った彰人先生の姿があって、くるりとイスを回して隼人くんによく似た笑顔を向けてくれた。「どうぞ」と促され、彰人先生の前に雪と並んで座った。 雪は昨日からずっと緊張していた。いつもより口数も少なくて、笑顔もどこかぎこちない。朝も早くに起きてしまったみたいだし、お昼ご飯も全然食べていなかった。 正直に言えば俺もめちゃくちゃに緊張している。でも雪を不安にさせたくなくて必死に隠しているつもりだったけど、どうやら隠し切れていなかったみたいだ。 「ふたりとも緊張してる?そんなに固くならないで」 穏やかに笑いながら、彰人先生はデスクに置かれたファイルから1枚の紙を取り出し俺たちの前に広げた。 「これがね、高校生のときに受けてもらった検査結果」 その紙には様々な項目と記号や数字が書かれていた。 「ひとつずつ説明するね」 彰人先生がそう言うと、隣に座る雪がこちらに顔を向け、ゆっくりと左手を伸ばしてきた。その手に自分の手を重ね、ぎゅっと握り締めた。 「大丈夫だよ、雪。一緒にいるから」 「大丈夫かな?」 「はい。お願いします」 彰人先生はとても丁寧に、雪の不安を溶かしていくように話をしてくれた。 「色々と話したけど、全ての項目で陰性。数値にも問題ないよ。だから、安心して?」 彰人先生の優しい声にスッと肩の力が抜けていく。 「でもね“今は”大丈夫なだけということを忘れないで。知識を得ることは大事だよ。大事な人と自分自身を守るために正しい知識を身につける。それからたくさん会話をして、ひとつひとつ確認をする。相手の望むこと、望まないこと。不安に思うこと、怖いと思うこと…」 そして彰人先生の言葉が、ひとつひとつ心の真ん中に落ちてくる。 「決して無理をさせちゃいけないし、我慢してはいけない」 「はい」と答えた俺に、彰人先生はふふ、と嬉しそうに目を細めた。 「私なんかがこんなことを言うのはおかしいかもしれないけど、君たちふたりで良かった」 「…俺たち、ふたりで?」 「うん。雪くんの相手が春くんで良かった。そう思うよ」 優しく笑う彰人先生のその顔は、やっぱり隼人くんによく似ていた。 『分かるよ。好きな子のことは独り占めしたくなる。でもさ、独り占めして閉じ込めるよりも、この広い世界を、雪と一緒に歩いて行くほうがずっとずっと楽しいよ?たくさんの人に出会って、綺麗なものを見て、美味しいものを食べる。お互いを思いやって、支え合って、補い合って、一瞬一瞬を大事にするの。 一日の終わりに今日も幸せだったなぁって、雪も春も思えるように。そう思えるように一日一日を大事に生きてほしいってことだよ』 あのときの隼人くんの言葉を、俺は今でもはっきりと思い出すことができる。 「何かあったらまたいつでも連絡して。私じゃなくても、信頼できる医者がいればすぐに頼ること。いいね?」
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