最終章 春と雪

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腕の中で雪が眠っている。 俺の胸元にぴたっとくっついているその顔はなんだか幸せそうで、ふふ、と笑みがこぼれた。 雪の寝顔は出会った頃から変わらない。幼くて、あどけなくて、昨夜の艶っぽい雪とは別人のようだ。 「…ん、」 しばらく雪の寝顔を眺めていると、もぞもぞと布団が動いて雪がゆっくりと目を開けた。 「ん…、春…?」 「おはよう、雪」 「おはよう、春」 可愛い。 いつもは甘く透き通っている雪の声がほんの少し掠れていて、昨夜のことが夢じゃないと教えてくれているみたい。 「体どう?しんどい?」 「…んーん、平気」 ほんのりと頬を赤く染めて、また俺の胸に顔を埋めてしまった。雪も昨夜のことを思い出しているのかな。だんだんと耳まで赤くなっていく。愛おしさがつのって、その華奢な体をぎゅうっと抱きしめた。 「んっ、春…?」 「あー、もう、ずっとこのままでいたい。仕事行きたくないなぁ」 その言葉に、腕の中の雪がパッと顔を上げた。 「…春、昨日もやけど、大阪まで来てくれたとき、仕事は…?」 「んー…?ちょうど休みだったんだよね」 「ほんまに?」と、雪は眉を下げてうるうると目を潤ませる。 「ほんとだよ?だからそんな泣きそうな顔しないで」 柔らかい前髪をかき分けて、現れた形のいいおでこにキスをする。雪はうん、と頷いて、また顔を赤くした。 でも今日はどうしても仕事に行かなくちゃいけない。(みお)、堂谷、そして律さん。それから数え切れないほど多くの人たちと作り上げたあの映画が、やっと公開される。今日はその映画の舞台挨拶があった。 澪と堂谷に会うのは、堂谷と殴り合った、あの日以来だ。 「雪は?今日はずっと家にいる?」 「うん、いる」 「そっか。今日はゆっくりしてなね?」 「寝ててよかったのに」 「んーん、平気」 家を出る前、雪はまだ少し怠そうな体を引きずって玄関まで見送りに来てくれた。 「じゃあ、行ってくるね。終わったらすぐ帰ってくるから」 「うん、行ってらっしゃい」 * * 現場に入ると、そこにはすでに澪と堂谷の姿があった。 「春!よかったぁ!来たー!」 「澪、色々ごめんな。ありがとう」 本当は大阪へ行った日。映画の宣伝のためにテレビ出演の仕事が入っていた。でも急遽、代わりに澪が出てくれた。「いいのいいの、どうせ暇だったし」なんて澪は笑うけど、パンパンのスケジュールで俺なんかよりもよっぽど忙しいこと、空いている時間には新しい作品の台本を読んで、子どもの頃に通っていたという劇団の先生に未だに演技指導をしてもらっていること、笑顔の裏にたくさんの努力を隠していること。俺はちゃんと知ってる。 「澪、本当にありがとう」 「…だから、暇だったから、気にしないでよ。逆にテレビ出れてラッキーだった」 言いながら、澪がちらりと堂谷に視線を向けた。堂谷はこちらのことなんて少しも気にしていない素振りでスマホをいじっている。「堂谷、」と発した俺の小さな声は「澪ちゃん、ほんっとにありがとうね!」という綾香(あやか)さんの声にかき消されてしまった。 「綾香さん、全然いいんですよ。また春が飛ばしそうになった仕事あったら回してください」 「ふふ、そうする」 「それより春」と澪に向けていた笑顔をキリッと引き締めて、綾香さんが言った。 「囲みで映画に関係ない質問きたら無視しなさいね、スルーよ、スルー」 「関係ない質問くるの?」 言葉の意図を理解できない俺に綾香さんと澪が顔を見合わせて「はぁ、」とため息をついた。 「ほんとにSNSとか見ないんだから。“大阪駅で広瀬春見た!”って、目撃情報があがってます。ご丁寧に写真付きで」 「え、写真?」 写真って、まさか雪と一緒にいるところ?慌ててスマホを取り出し探そうとすると「大丈夫よ」と綾香さんがそれを制した。 「うちのスタッフで血眼になって探したけど、春ひとりの写真しかなかった」 「あ、…え?」 「雪ちゃんも一緒だったんでしょ?大丈夫、写ってない」 「とにかく、華麗にスルーしないさいね!ほら、いってらっしゃい!」 綾香さんにパシンッと肩を叩かれて、俺たちは舞台に上がった。 舞台挨拶は何事もなく終わり、そのあとは集まってくれた記者の囲み取材に応える。和やかな雰囲気のままもうすぐ終わる、というところで、綾香さんの心配が的中した。 「広瀬さん、先日テレビ出演をドタキャンされたそうですが、どうされたんですか?ご旅行ですか?」  ひとりの記者がそう言った。 言葉遣いは丁寧だけど、確かな悪意を感じる。きっと顔が引き攣ってしまったんだろう。パシャパシャと一斉にシャッターがたかれた。 綾香さんは無視しろと言ったけど、馬鹿正直に本当のことを言わないまでも、何か答えるべきなんじゃないか…。「広瀬さん」ともう一度名前を呼ばれたとき、俺にしか聞こえないくらいの小さな声でボソッと堂谷が呟いた。 「めんどくせぇな」 「いいじゃないですか、別に。仕事サボったって。あなたに迷惑かけました?」 「…私にはかかっていませんが、みなさんは迷惑かけられたんじゃないですか?」 「だから、別に迷惑かけられてもいいって思ったから、今こうやって一緒に立ってんだろ」 射抜くような堂谷の鋭い視線。 「誰かに迷惑かけるとか、そんなことも忘れるくらい、そんなことどうだっていいと思えるくらい、仕事よりも何よりも、大事なものがあったっていい」 「…俺にはそういうものがないから、酷くムカついて、羨ましく思ったこともあったけど」 ここにはたくさんの人がいるのに、まるで時間が止まってしまったみたいにシン、と静まり返っている。 「もう終わりでいいっすよね?」 半ば強制的に取材を終わらせた堂谷は「終わりだって」と、ポカンと間抜け顔で突っ立っている俺と澪を置き去りにしてその場を離れた。 * * 「律さん!来てくれたんですか!?」 控室に戻ると、そこにいた律さんが「みんな、お疲れ様」と笑顔で迎えてくれた。 「見てました?堂谷、記者さんに喧嘩売ってましたよ?」 「はは、うん、びっくりした」 「あんたこれ以上好感度下げてどうすんの?炎上商法?」 「うるせぇな、ほっとけよ」と澪の嫌味を聞き流しながら、堂谷はそそくさと帰る準備をしている。 「堂谷、ありがとな」 その背中に声をかけると、ピタッと動きを止めて、堂谷が振り返った。 「…好感度下がったら、お前のせいだからな」 「春くん、これ」 次の仕事があると澪と堂谷が帰ったあとで、律さんがA4サイズの紙袋を鞄から取り出した。 「続きを書いたんだ。これを雪に渡してほしい」 その中に入っていたのは何枚もの原稿用紙。 「今日はこれを渡しに来ただけだから」と立ち去ろうとする律さんを引き止める。 「律さん、このあと、時間ありますか?」 「え?」 「うちに来ませんか?…これ、律さんから雪に渡してあげてください」 * * 「ただいまー」 玄関でゆっくりと靴を脱いでいると(律さんはそんなに脱ぎにくい靴なの?と不思議そうだった)廊下の向こうからとん、とん、と雪が静かに杖を鳴らして迎えに来てくれた。 「おかえり、春」 ふわりと笑った雪は、俺の隣に立つその人を見て「え、」と小さな声を上げた。 「雪、ごめんね、急に」 「律さん…」 律さんの名前を呼びながら、雪が不安げに俺の顔を見た。こんな顔をさせているのは俺だ。律さんに嫉妬して、あんなに酷いことをしたから。 雪にとって律さんはきっと特別な人で、それはこの先も変わらない。 律さんに嫉妬する気持ちが全くなくなったわけじゃないけれど、それでも律さんが雪のために書いた物語を、律さんの手から雪に渡してほしかった。 「雪、俺がね、来てほしいって言ったの。律さん、雪に渡したいものがあるんだって」 「…渡したいもの?」 律さんは、ガサガサと鞄からあの紙袋を取り出した。 「あの物語の続きを書いたんだ。高校生のとき自分が書いていたものなんて、すごく恥ずかしいんだけど。でも、なかなかいい出来だと思う」
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