最終章 春と雪

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ソファーにふたり並んで座り、ぱらりと原稿用紙をめくる。 雪は俺にぴったりくっついて、早く早くと言うように俺の腕をぎゅっと掴んでいる。 律さんは「これを渡しに来ただけだから」と、部屋には上がらずそのまま帰って行った。 律さんが雪のために書いたのは、ある孤独な少年の初恋の物語だった。 *** 少年は毎日青い傘をさしていた。雨の日はもちろん、曇りの日も、どんなに風が強い日も、そして青空が広がるよく晴れた日も。 少年はいつもひとりだった。 まわりの人はみんな、その少年を頭のおかしい奴だと言った。指をさして笑った。だけど少年は傘をささずにはいられなかった。なぜならその少年の空には、いつだって雨が降っていたから。毎日毎日、冷たい雨が降りしきっていた。 ある日、少年は冬の公園でひとりの少女に出会った。白い肌にサラサラと風に流れる黒い髪。大きな瞳を縁取る長いまつげ。 少年はその少女から目が離せなくなった。 少年は初めて恋をした。 それから少年と少女は、その公園で共に時間を過ごすようになった。少年は自分の傘の中に少女を入れた。少女が雨に濡れないように、傘を傾けて。 そして少年は気が付いた。はみ出した肩が濡れていないこと。雨が降っていないこと。 それに気付いた少年は傘をさすことをやめた。 そしてそれと同時に少女は少年の前から姿を消した。 少年は大人になった。 少女がいなくなってから、彼の空にはまた雨が降るようになった。だけど彼はもう、子どもの頃のように傘をさすことはなかった。 少年はおじいさんになった。 彼は気付いていた。自分の命がもう長くないことに。そして彼は数十年ぶりにあの公園に行った。あの頃と同じ、青い傘をさして。すれ違う人々が「おかしなおじいさん」だと笑っている。 彼は分かっていた。公園にあの少女がいること。あの頃と同じ、子どもの姿のままで。 彼はさしていた傘を閉じて、どこまでも続く青空を見上げた。そしてあの頃とすっかり変わってしまったしわしわの笑顔で、掠れた声で、少女に語りかけた。 「僕は君に恋をしていた」 「君がいなくなってから、ずっと考えていたんだ。どうして僕の空はずっとどんよりとした曇り空で、しとしとと雨がふっているんだろうって」 「答えは僕の中にあるんだと思っていた。僕の心が変われば、空の色も変わると。そう、信じたかった。だけど違ったんだ。答えはずっと、僕の隣にあった。なんて綺麗な青空だろう。君が隣にいれば、いつだって空は、青く美しく澄み渡っている」 *** ぽたぽたと、雪の目から温かい涙がこぼれている。 「雪、大丈夫?」 「うん、大丈夫」と頷いた雪のまつげがかすかに揺れて、雪がゆっくりとこちらに顔を向けた。紅茶色の瞳に映る自分の顔。雪と一緒にいるとき、雪を見つめるとき、俺ってこんな顔してるんだ。 「病院の中庭で、初めて春に会った日も、すごく綺麗な青空やったの」 「うん、そうだったね」 そう、雪と出会ったあの日は胸がぎゅっと締め付けられるほどの、とても綺麗な青空だった。 雪は本を読むのが好きだった。 病院にいるあいだもたくさんの本を読んでいた。ロボットが活躍する冒険小説や少年が主人公のミステリー小説。そして科学系の読み物や図鑑。 どうして空は青いのか。 そんなことが書かれているページを雪は熱心に読んでいて、俺は雪の隣で「なんだか難しい本読んでるなぁ」なんて、のんきにお菓子を食べていたっけ。 「春。俺の答えも、律さんとおんなじやった」 そう言ってふにゃりと笑った雪にどうしようもない愛おしさが込み上げてくる。 こんなに無防備で、警戒心なんてどこかに置いてきてしまったみたいな笑顔、俺以外の人には見せて欲しくないけれど。でも、この笑顔を、俺が一生守っていくって決めたんだ。 「春?」 「ん?」 「今度、いつ仕事休み?」 「仕事?」 「おばあちゃんとおじいちゃんのところに行きたいの。一緒に、来てくれる?」
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