最終章 春と雪

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次の土曜日。俺は再び笹原さんの家を訪れていた。 今度はひとりじゃなく、雪とふたりで。 「どうぞ」 「あ、ありがとうございます」 ことん、と目の前に紅茶の入ったカップが置かれた。この若く美しい人が雪のおばあちゃん。 「雪、熱いから気を付けて」 いつもは俺が言うセリフを(ゆう)さんが当たり前のように口にした。優さんも雪が猫舌で熱いのが苦手だってこと、ちゃんと知ってるんだ。 笹原さんは俺たちが部屋に入るとすぐに「ちょっと待ってて」と、慌ただしく2階へ上がって行った。 「おいしい」 恐る恐るカップに口を近付けて、こくんと一口紅茶を飲んだ雪。そんな雪を優さんはとても優しい目で見つめている。 少しして2階から戻って来た笹原さんは「はい、これ」と雪に白い箱を手渡した。それは雪の宝箱だ。 「これを取りに来たんでしょ?」 「うん、ありがとう」 受け取った雪はそっとその箱を開けた。箱の中にはたくさんの雪の宝物が入っている。 紅茶色の石。功が描いたちょっとだけ少女漫画風の俺と雪の似顔絵。制服の第二ボタン。雪のために初めてバイトをして買ったシルバーのブレスレット。 これから先も雪の宝物は増えていく。俺が増やしていく。 「雪」 パタンと箱を閉じた雪に優さんがすっと手を差し出した。 「雪。これを蒼佑に渡して欲しいの」 優さんがテーブルの上に置いたのは、雪の宝箱とはまた別の、赤いリボンのかかった小さな箱。 「これは蒼佑の大切なものやから」 「蒼佑くんの?」 そう、と頷いた優さんに雪が聞いた。 「…おばあちゃんから、渡さなくていいの?」 優さんは雪の問いかけに答えることなく、雪の手に自分の手を重ねて、そして言った。 「雪。(ゆい)は大丈夫やから」 紅茶色の瞳が絡み合って、美しいふたりの姿に見惚れてしまう。雪の瞳は色素の薄い透き通った紅茶色。優さんの瞳は雪のそれよりも深く、濃い紅茶色。 「…おばあちゃん?」 「結のことはちゃんと私が見てるから…。雪は、自分の人生を生きなさい」 もしかしたら…と思った。もしかしたら優さんは雪のお母さんに会いに行っているのかもしれない。俺が大阪に向かった日、優さんがこの家にいなかったのも。 「雪。好きな人の隣で、どうか、幸せになって」 「お願い、雪」 重なったふたりの手が震えている。雪の手をぎゅっと握ったまま、優さんがこちらに顔を向けた。 「広瀬さん」 「あ、はい…っ」 「雪のことを、よろしくお願いします」 ゆっくりと頭を下げた優さんを見て、なぜかふと、あの雑貨屋のお姉さんは今幸せかな?とそんなことを思った。あの日のお兄さんがもう隣にはいなかったとしても、新しい恋をして、好きな人の隣で笑っていてほしい。 『同性同士の恋なんて、きっと報われない、お互い傷つくことが男女で恋に落ちるよりも多いかもしれない。…それでも、好きな人の隣で生きていくこと以上に幸せなことなんてないと思う。だから、あの子の恋が実りますようにって、ずっと願ってた』 好きな人の隣で生きていくことがとても難しいこと、だけどとても尊いことだと、俺はあの日教えてもらった。 紅茶色の瞳。細く長い指。雪と優さんはよく似ている。 「はい、必ず、幸せにします」 * * 「このまま蒼佑くんとこ行く?」 「うん、行きたい」 助手席で雪がシートベルトを締めたのを確認して、車のエンジンをかけた。雪の膝の上には優さんから預かった赤いリボンの箱。 優さんは言っていた。 『この家に引っ越してくるときにね、前の家を整理していて見つけたの』 これが一体何なのかは分からないけど、これから雪とふたりで蒼佑くんに届けに行く。 きっと蒼佑くんと優さんにとって大事なもののはずだから。 なんの連絡もせずに来てしまったけど、蒼佑くんは家にいて、何事もなかったみたいに「おう、おかえり」と言った。 「あれ、風磨(ふうま)くん来てたんだ」 部屋の中には風磨くんの姿があった。風磨くんに会うのはとても久しぶりな気がする。でもいつも一緒にいる隼人くんはいなくて「隼人くんは?」と聞けば「隼人は仕事」と答えた。 「仕事ってフリースクール?」 「そう、なんとかやってるみたいだな」 そう言う風磨くんはまるで自分の弟を自慢するみたいに、なんだか嬉しそうだった。そして雪の方に視線を向け、聞いた。 「雪、それ何?」 雪の手の中にある小さな箱。それを蒼佑くんに差し出すと、その箱を見た蒼佑くんは一瞬目を大きく見開いて、そしてすぐに雪の顔を見た。 「これ、おばあちゃんから蒼佑くんに渡してほしいって頼まれた」 「…俺じゃないやろ。これは雪のや」 蒼佑くんの言うことの意味が分からなかった。雪もどういう意味?というように困った顔をしている。そんな雪に蒼佑くんはなぜか苦しげに眉を寄せ、もう一度言った。 「これは、雪のや」 「…蒼佑くん?」 「雪の7歳の誕生日に、渡そうと思ってた」 蒼佑くんの言葉に雪がハッと息を飲んだ。 雪の7歳の誕生日。蒼佑くんと雪が離れ離れになって迎えた最初の誕生日に、蒼佑くんは雪にプレゼントを用意していたんだ。そして渡すことのできなかったその想いを、優さんはずっと大切にしまっておいてくれていた。 「…開けてもいい?」 うん、と蒼佑くんが頷いて、雪はその箱を開けた。箱の中に入っていたのは、とても可愛らしい雪だるまのキーホルダー。赤い帽子をかぶって、赤いマフラーを巻いている。 「ごめんな」 雪だるまをじっと見つめる雪に、蒼佑くんが言った。 「ごめんな、雪」 蒼佑くんの「ごめんな」にはいくつもの意味が込められている。誕生日プレゼントを渡せなくてごめん。助けに行けなくてごめん。「生きろ」と言えなくてごめん。 あったかもしれないもうひとつの世界で、雪はこのキーホルダーをランドセルにぶら下げて学校に通っていたかもしれない。今、こちら側の世界にいる雪は、このキーホルダーを雪にとってとても大事な黒い杖にきゅっとくくりつけた。 「恥ずかしいやろ、いい歳して」 「ううん、恥ずかしくない」 蒼佑くんの顔がくしゃ、と歪んで、その目からつーっと涙が流れた。あの日から、蒼佑くんは涙もろくなってしまったようだ。 うしろからとん、と肩を叩かれて、風磨くんとふたり部屋の外に出た。 * * 「蒼佑が泣いてるとこなんて、初めて見たな」 近くの公園で缶コーヒーを飲みながら風磨くんが笑った。俺も風磨くんと同じブラックコーヒー。買ったのは風磨くんだけど。 「風磨くん、前に言ったよね。これから先も雪を好きでいるのか、これから先も一緒にいるのか。それはお前が決めていいことだよ?って」 「…よく覚えてんな」 あの日の俺はシュワシュワと泡の弾けるコーラを飲んでいた。 「俺、ずっとずっと雪のことを好きでいたよ。好きでいてよかったって思うし、これから先も、雪のことを好きでいる。ずっと、雪と一緒にいる」 あの頃に比べれば俺も雪もずいぶんと大人になったはずだ。風磨くんや蒼佑くんから見れば、まだまだ子どもなんだろうけど。「そっか」と風磨くんは呟いて、ふっと青空を見上げた。 「これから先、雪はお前の隣でどんな風に生きていくんだろうな」 「それはゆっくり考えればいいと思う。やっと、未来を考えられるようになったんだ。雪が自分のこれからを考えられるようになった」 そう、今までの雪には自分の"これから"を見る余裕なんてなかった。この世界から消えることを考えて、未来を生きることなんて考えていなかったんだ。 「…それは、お前もじゃん。お前も今までずっと雪のことばっかりで、春自身のこと、自分でちゃんと考えてやってなかっただろ?」 青空を見上げていた風磨くんが、チラリと視線を俺に落とす。 早く大人になりたかった。お金を稼げるようになればずっと雪と一緒にいれると思った。たくさんお金を稼げば「お前には力がない」なんて言われることはないと思った。 『お前にできることは何もない。お前はまだ子どもで、お前には力がない。もう、終わりにしろ』 高校の空き教室で風磨くんに言われたこの言葉は、グサグサと心に刺さったまま、いつまでも抜けることはない。 「俺、この仕事、向いてないかな?」 「さぁ…、お前はどう思う?」 この仕事に夢や憧れがあったわけじゃない。この仕事をしていく覚悟が足りないことも、澪や堂谷と出会って痛いほどに知った。 だけど、今は、 「向いてるかは分かんないけど、嫌いじゃない。もう少し、続けてみたい。…甘いかな?」 「そうだな、甘いな」と風磨くんが笑う。 「甘かったなって思いながら、もがいてもがいて生きていくしかない。でも、大事な人が隣にいれば、支え合って、補い合って、そうやってどうにか生きていけるもんなんだろ」 どんなに大人になっても、みんなもがきながら生きている。 風磨くんも隼人くんも蒼佑くんも。笹原さんも優さんも。そして雪のお母さんも。 もがいてもがいて、それでも笑って、笑えなくなったら、隣にいる人に寄りかかって。そうやって生きていく。 「春」 ふいに名前を呼ばれて振り返ると、そこには雪の姿。 「雪」 「帰ろう?春」 ゆっくりとこちらに歩いて来た雪がふわりと目を細めた。 「うん、帰ろう、雪」 足早に季節は巡っていく。自分の心と体だけが置き去りにされていると感じたこともあったけど、今確かに、雪の隣で雪と同じ時間を生きている。 長い冬の終わりが近づいていた。暖かい春がすぐそこまで来ている。
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