最終章 春と雪

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「またそれ見てるの?」 ダイニングテーブルに座って薔薇の花を眺めていると、うしろからふわりと春に抱きしめられた。温かい体温、甘いシャンプーの香り。ドキドキして、だけどすごく安心する。 「飽きない?」 「全然飽きない」 12本の薔薇の花束はブリザーブドフラワーに姿を変えて、今日もこの部屋で咲き誇っている。 本当だったら今頃は首が下がって、しおれて、枯れてしまっていたかもしれない。 どうしてもこの薔薇の花が枯れてしまうのが嫌で『薔薇の花を長持ちさせる方法』なんかを調べていたら、春がお花屋さんに持っていってブリザーブドフラワーにしてくれた。 「雪、髪乾かして?」 ふっと体を離した春が、ラグに座ってぽんぽんとソファーを叩く。 「うん、ええよ」 キラキラ。サラサラ。 何度も染め直しているはずなのに、春の髪はとっても綺麗。仕事の都合で黒や茶色にすることもあるけれど、それが終わればいつもすぐに金髪に戻していた。 カチ、とドライヤーを止めると「ありがと」と立ち上がった春がドライヤーを片付けに行く。そしてすぐに戻ってきて、もう一度「ありがと」と髪をぽんぽんとなでてくれる。 春の手はとても大きい。その手で髪をなでられるのが、子どもの頃から大好きだった。 「雪?」 隣に座った春に名前を呼ばれ顔を向けると、そこにはなぜか困ったように眉を下げて微笑む春の顔。 「どうしたん?」 「俺、来月泊まりで仕事入っちゃって。宮城まで行くんだ」 「え、いつ…?」 「えっとね、」と春はスマホを手に取ると、カレンダーアプリを起動させた。 「ここからここまで」 ここまで、と春が指差したのは4月17日。春の22歳の誕生日。 「…何時くらいに帰ってくる?」 「たぶんね、最終の新幹線とかになると思うから。待ってないで寝てていいよ?」 「でも…、」 春の誕生日は一緒に過ごしたい。春の誕生日はふたりでお祝いしたい。でもそんなことは口に出せなくて、ぎゅっと春の手を掴んでしまう。 「雪。次の日、いっぱいお祝いして?」 「ね?」と顔を覗き込まれて、手の甲に優しくキスを落とされる。そんなことをされたらもう頷くことしかできなくて。 「…うん、分かった」 * * 明日から3日間、春はこの部屋には帰らない。でも最後の日も帰りは日付を回ってからになってしまうかもしれないから4日間になるのかな…? たった、4日。 「おやすみ、雪」 「おやすみ、春」 春と初めてセックスをした日から、春のベッドで一緒に眠るようになった。春が「これからは一緒に寝たい」と言ってくれたから。 あれから一度もセックスはしていないけど。 「雪落っこちたら嫌だから」って、春はいつも俺を壁側に寝かせてくれて、眠るまでふわふわと髪をなでてくれて。春は優しすぎるくらいに優しい。だからいつもその優しさに甘えてしまう。 「春…?」 「ん?どうしたの?」 「電話、してもいい…?」 「え?」 「仕事、忙しい?」 髪をなでていた手がするすると頬に落ちてきて、目を上げると優しい春の目と視線が重なった。 「電話してくれるの?」 「うん…っ」 「ありがとう。出られなかったらごめんね?でも絶対かけ直すから」 そう言って春が笑ってくれるだけで、なんだか胸がぎゅっとなって涙が出そうになってしまう。たった、4日。4日経てば春は必ずこの部屋に帰ってきてくれるのに。泣いたりしたら春に心配かけてしまうから、滲む涙を隠すように春の胸に額をぐりぐりと押し付けた。 「おやすみ、雪」 「じゃあ、行ってくるね」 翌朝。朝早くに出掛ける春を玄関まで見送る。いつもは自分の車で仕事に行く春だけど、今日は綾香さんが迎えに来てくれている。もうマンションの下に着いているみたいだから、離れ難いけど長く引き止めることはできない。 「いってらっしゃい、気を付けてな?」 「うん。夜はちゃんと戸締りしてね?あとなんかあったらすぐ連絡して?俺出なかったら綾香さんにもかけてね?」 「もう、そんな心配せんでも大丈夫」 心配ばかりかけたくなくて、安心してほしくてそう言ったつもりだったのに、春はなぜか少しムッとした顔をした。 「心配するよ。雪のこと大切なんだから、心配させて?」 「…あ、うん…」 「ふふ、顔赤い。じゃあ、行ってきます、雪」 からかうように笑った春は、ちゅ、と唇にキスをして、手を振りながら部屋を出て行った。 バタン、と部屋のドアが閉まる。 たった今、離れたばかりなのに。 早く、早く、帰ってきてほしい。
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