最終章 春と雪

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春が先に仕事に行って、誰もいない部屋に「いってきます」と言うのはよくあること。 帰りが遅くなる春を静かな部屋で待つのもいつものこと。 だから全然大丈夫。 * * 「雪、寂しい?」 「えっ?」 「ぼーっとして、寂しそうな顔してるから」 大学の食堂で一緒にお昼を食べていたサクが困ったように笑った。 「可愛いけど、春には見せらんないね」 「雪が寂しそうな顔してるって言ったら、あいつ仕事放り出して帰ってきそうだから。今日からいないんでしょ?」 「あ、うん…」 一応大学には来たけれど、ぼーっとしているあいだにいつのまにかお昼の時間になっていた。午前中の授業、全然聞いてなかったな。 「あかんね、こんなんやから、いつまでたっても春に心配かけてばっかり」 「うーん…、でもさ、好きな人を心配するのは当たり前のことなんじゃない?」 好きな人。春の好きな人。 「ふふ、俺さ、正直に言うとね、自分には無理だなぁって、ずっと思ってたんだよね」 「…?何を?」 「こんなに、人を好きになること」 サクの言うことの意味が分からなくて、またぼーっとサクの顔を見つめてしまう。 「そんな見つめないで、照れるじゃん」 サクは見ているだけでお腹いっぱいになりそうな大盛りの豚焼肉丼を頬張っている。ごくん、と口の中のご飯を飲み込んで、サクが続けた。 「たったひとりをどうしようもないくらい好きになるのって、すごく怖いことだと思うんだ。その人を怒らせてしまったら、泣かせてしまったら。その人が他の誰かを好きになってしまったら、その人が目の前からいなくなってしまったら。そう考えたらすごく怖い」 「だから俺は今まで本気で人を好きになったことがないんだよね。こんなこと言ったら、付き合ってた子たちに失礼かもしれないけど。…でも、きっと向こうもたいして本気じゃなかっただろうし」 なんてことないようにサクは言うけど、その顔は少し悲しげだった。 サクは春と同じくらい優しくて、紳士的で、女の子にも人気があって。今まで何人かの女の子と付き合っていたのは知っているけど、サクからその子たちの話を聞くことはほとんどなかった。 「でも春は全然違った。全力で雪を好きになって、全身全霊で雪に恋をしてた。痛々しく見えることもあったけど、今はすごく、羨ましく思う」 「…羨ましい?」 「うん。自分以外の誰かを、自分以上に好きになれるって、それってすごいことだと思う。結局俺は、自分のことが一番大事で一番可愛かっただけなんだって、春に気付かされたんだ」 サクは自分の親友を自慢するようになんだか誇らしげで、だけどすぐに照れくさそうに頬をかいた。 「だから、まぁ…とにかくさ、雪は何にも気にしないで、あいつに心配かけとけばいいんだよ」 『自分以外の誰かを、自分以上に好きになれる』 春の気持ちを疑ったことなんて一度もない。 こんなことを人に言ったら「自惚れている」と呆れられてしまうかもしれない。だけど春の愛はいつだってまっすぐで、深く、大きく、汚れているこの心と体を包んでくれた。春に愛してもらえる。そんな自分は世界一幸せだと思う。 でも、だからこそ思ってしまう。自分なんかが世界一幸せでいいのか。自分なんかと一緒にいて春は幸せになれるのか。春の空は今何色なんだろうって。 「またぼーっとしてる」 目の前でヒラヒラとサクの手が揺れている。 「あ、ごめん…」 「大丈夫だよ」と笑いながら、サクは最後の一口を大きく開けた口の中に放り込んだ。 「そうだ雪、明日って空いてる?」 「明日?」 「甲斐くんが新メニュー開発したらしくて。試食しに行かない?」 * * 「もしもし?雪?」 21時。ひとりではご飯を作る気にならなくて、スーパーでお惣菜を買って夕飯をすませた。そわそわしながらお風呂に入って、そろそろ大丈夫かな…と春に電話をかけた。 すぐに出てくれた春は「ちょうど今ホテル戻ってきたとこ」と嬉しそうに笑った。 「大丈夫なん?ご飯とか、お風呂とか…」 「全然大丈夫!それよりさ、雪、ビデオ通話にしない?」 「あ、春…」 一度暗くなった画面にぱっと映る春の顔。少し疲れているかな?朝早くに家を出て、遅くまで仕事をしていたんだから当たり前だけど。 「良かった。雪の顔見たかったんだ」 優しく響く春の声。低く、少し掠れていて、自分の声とは正反対。春のその声で名前を呼ばれるたびに心がぽかぽかして、胸がふるふると震える。 「春。仕事、どうやった?」 「うん、楽しいよ。海が近くて景色もすっごく綺麗だし、雪にも見せたいなぁって思ってた。今度一緒に来ようね」 春は今、新しい映画の撮影をしている。 律さんの映画でのお芝居が評価されて、すぐに新しい仕事が入った。 たとえ仕事中でも、ほんの一瞬でも「綺麗な景色を雪に見せたい」と思ってくれることが嬉しくて、今すぐ触れられる距離に春がいてくれたらいいのにと思った。 「雪は今日何してたの?」 「…えーっとね、今日は大学行って、ちょっとだけ図書館寄って、スーパーで買い物して帰ってきた。ふふ、いつもと変わらんね」 「そっか。あんまり暗くならないうちに帰って来てね。遅くなるときはサク呼びつけて送ってもらって」 「うん。でも大丈夫、早く帰るから」 それからはたわいもない話をして、明日は甲斐くんのお店に行くと言えば「俺も甲斐くんの新作食べたい」と春が笑って。気が付けばあっという間に23時を回っていた。 「春、明日も朝早いん?」 「んー、まぁそうだね」 「…そっか、じゃあそろそろ切らなあかんね」 「雪。明日は俺から電話するね」 「…え?」 「だから、そんな寂しそうな顔しないで。今すぐ抱きしめたくなっちゃう」 春は笑っているのに、その顔は少し寂しそう。春も同じなのかな。春もひとりの夜を寂しいと思ってくれているのかな。 「…春?」 「ん?」 「あの、春の部屋で、寝てもいい?」 そう聞くと、春の顔からさっきまでの寂しさはすっかり消えて、今度はとても嬉しそう。 「当たり前でしょ。どこで寝るつもりだったの」 「うん…」 「雪、ちゃんと戸締りしてね?」 「うん、分かってる」 切りたくない。でも切らなきゃ。大丈夫、明日になればまた春の顔が見れる。 「…春、先に切って?」 「ふふ、うん、分かった」 「…おやすみ、春」 「うん、おやすみ、雪」 ほんの少し見つめ合ったあと、プツッと電話が切れた。 真っ暗になった画面。 シン、と静かな部屋。 もうすぐに寝てしまおう。急いで歯を磨かなきゃ。 春の部屋に向かいひとりベッドに潜り込む。今日はひとりなのについいつものくせで壁際に寄ってしまった。 春の帰りが遅い日はひとりで先に眠ることもあるけれど、朝になれば必ずそこには春がいた。 目が覚めて隣に春がいないのは、きっと、とても寂しい。
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