最終章 春と雪

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「雪!着いたよ!」 「はーい、今行く。ちょっと待ってて?」 スマホが鳴って、耳に当てれば元気いっぱいな功の声。 功も甲斐くんのお店に一緒に行くことになって、マンションまで迎えにきてくれた。 エレベーターを降りてエントランスを抜けようとすると、自動ドアの前で功が大きく手を振っている。 「お待たせ」 「んーん!行こ!」 ここから甲斐くんのお店までは少し距離があるけど、お散歩にはちょうどいい。今日はとってもいい天気で、春がいる海の近い街も青空だといいなぁって、空を見上げてそんなことを思った。 * * 「お、いらっしゃい!」 「雪ちゃん、功くん!久しぶり!」 開店前のお店には甲斐くんとサク、そして澪さんの姿。 澪さんの笑顔はひまわりのように明るくて、向けられた人はみんな、きっとつられて笑顔になってしまうはず。 「澪さんも来てたんだ!」 「うん。私もう、常連さんなの」 「ね、甲斐くん」と、甲斐くんを見つめたその顔は、さっきの笑顔とはまた少し違って、なんだかすごく可愛かった。 専門学校に通って調理師免許を取った甲斐くんは、学校を卒業したあと、ずっとバイトをしていたこの洋食屋さんでそのまま働き始めた。 いくつも新メニューを開発してはこうして試食をさせてくれているけど、なかなかお店の新商品としては採用されない。そのたびに甲斐くんは「師匠きびしーんだよなー!」と悔しそうにしていた。 じゃーん!と甲斐くんが出してくれたのは綺麗な3つのまん丸の… 「コロッケ?」 「そう!中割ってみて!」 「…わ、きれい」 甲斐くんに言われた通り3つすべてを真ん中で割ると、その中身はそれぞれ綺麗なピンク色、黄色、紫色。 「何これ!着色したの!?」 「違いますよ!これはインカのめざめとシャドークィーン、ノーザンルビーっていう種類のジャガイモを使ってて。これいいっすよね!?うちの師匠、こういうオシャレ心がないから」 得意げな甲斐くんを見て、澪さんは嬉しそう。だけどちょっと意地悪な声で「まぁ問題は味だけどねぇ〜」と笑った。 甲斐くんの料理はどれも美味しい。師匠に認めてもらえないのが不思議なくらい。味はもちろんだけど、甲斐くんの「料理が大好き!」という気持ちがぎゅっとつまっている気がして。 甲斐くんはすごい。「まだまだ見習いだよ」と甲斐くんは言うけど、ちゃんとこうして夢を叶えた。 そしてそれは甲斐くんだけじゃない。 澪さんは女優さんとしてたくさんの人に認められていて、サクも高校の先生になるために勉強を頑張っている。功も人々の記憶に残るデザインを創りたいと、毎日毎日たくさんの課題と格闘しながら夢を追っている。 みんな、本当にすごい。 「雪、どう?うまい?」 「あっ、うん。すごくおいしい」 中にはトロトロのチーズも入っていて、本当にすごくおいしくて。素直にそう答えれば甲斐くんは「よっしゃ!」と大きくガッツポーズをした。 「やっぱさ、友達においしいって言ってもらえるのが一番嬉しいんだよな」 「…そうなん?」 「そうだよ。雪だって、春のために作ったご飯おいしいって言ってもらえたら嬉しいだろ?それと一緒。友達でも恋人でも、好きな人のためにご飯作るのは楽しいし、おいしいって言ってもらえたら嬉しい」 「だから俺は料理人になりたかったんだ。誰かのためっていうより、自分のためだな」 * * 甲斐くんのお店からの帰り道。 隣を歩く功がふふ、と笑った。 「どうしたん?」 「いやー、なんかさ、恋が始まっちゃってるのかなぁと思って」 「えっ?」 それって…と聞こうとした声は、功の「あ、雪!」という大きな声にかき消されてしまった。 「天気いいしさ、ちょっと日向ぼっこしてこ!」 大きな公園の緑色の芝生の上。楽しそうな声をあげて走り回る子どもや、寄り添ってお昼寝をする恋人たち。そんな人々の姿を眺めていると、目の前に「はい」と可愛いロゴの入った紙のカップ。功が近くのカフェで買ってきてくれた。 ありがと、と受け取ると、少し苦いコーヒーの香りが広がる。 「ね、雪はさ、今幸せ?」 隣に腰を下ろして、ごくっとコーヒーを飲み込んだ功が、突然そんなことを聞いた。 「…なに?急に」 「んー?なんかさ、あんなにかっこいい恋人にすっごい愛されてて、めちゃくちゃ幸せなんだろうなぁって思うんだけど、ときどきね、なんか辛そうに見えるときがあるから。…その理由は何なんだろう?って、ずっと不思議だった」 「そんな風に、見える…?」 「うん、見える。…雪は、何が怖いの?」 『何が怖いの?』 まさかそんなことを聞かれるとは思わなくて、くっと喉が詰まってしまう。 自分は何が怖いのか。それはよく分からなくて、でも本当は分かっていることもあって。 春のために何もできない自分が怖い。将来の夢も目標も見つけられない自分が怖い。いつかまた、あの部屋から逃げ出して、優しい春を傷つけてしまうのが怖い。 そんなことを考える自分が、ずっとずっと、 「ずっと、弱いままの自分が…怖くて、嫌い」 こぼれた本音に「そっかぁ」とのんびりと功が呟いた。 「でもさ、弱いままじゃダメなの?強い春がそばにいるなら、雪は弱いまんまでもいいじゃん」 そう言う功の声はとても優しいものだったけど、こちらに向けられる瞳はまっすぐで、真剣で、目が離せなくなる。 「でも、春が強いのは、雪がいるからなんだよ?自分の存在が大切な人の心を強くできるなんて。それってすごいことで、雪にしかできないことでしょ?」 「ちょっと冷えてきたね。そろそろ帰ろっか」と、功はぐーっと体を伸ばしてゆっくりと立ち上がった。大丈夫、と言ったのを無視して、功はまたマンションまで送ってくれた。別れ際、功が言う。 「今日はよく寝れるといいね?」 「え?」 「雪寝不足でしょ?なんかいつも以上にぽやぽやしてたから。寂しくて眠れなかった?」
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