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パチっと目を覚ますとあたりは真っ暗。
慌ててスマホに手を伸ばせば春からの着信が1件、メッセージが1件入っていた。
"雪もう寝ちゃってるよね?連絡遅くなってごめんね。また明日電話する。おやすみ。"
はぁ、と、暗闇に溶けるため息。
上体を起こすと腰が痛くて、いつのまにかソファーで眠ってしまっていたみたい。
時間を確認すると午前3時。春の顔が見たかったのに。春の声が聞きたかったのに。
*
*
「雪!いらっしゃい!」
あるマンションの一室。
ここは隼人くんが運営するフリースクールだ。2DKの間取りで学習室に図書室、そしてフリースペース(隼人くん曰く、子どもたちもスタッフも、何をしてもいい部屋)があった。
まだ始めて2年くらいだけど、10人近くの子どもたちがここに通ってきている。隼人くんはいつもこのフリースペースにいて、子どもたちを迎えていた。
今日は図書室の整理のお手伝い。あまり広い部屋ではないから、定期的に本棚に入れる本を入れ替えている。ここにある本は隼人くんと一緒に本屋さんに行って選ぶこともあれば、ここに通う子どもたちの保護者の方から頂くこともある。
本棚から除かれた本は、ある程度ジャンル別に分けてダンボールに入れておく。あれが読みたい!と言われたときにすぐ取り出せるように。
「そろそろ引っ越そうかなぁと思ってるんだよねぇ」
「…そうなん?」
「うん。もっと広い部屋に移りたいんだ。まぁお金はカツカツなんだけど」
「そっか…。すごいねぇ」
ふと手元に視線を落とすと、そのときちょうど手にしていたのは小学生の頃に夢中で読んでいた小説。シリーズ物で、新作が出るといつからか美咲さんか誠司さんが買ってくれるようになって、いつも春とふたりで読んでいた。
その小説の主人公は、春のように強く、勇敢な、優しい男の子だった。
「雪、ちょっと休憩!お茶にしよう」
*
*
「雪。何か悩み事?」
フリースペースに置かれた大きなテーブルに隣り合って座る。目の前には花柄の可愛いカップに入った紅茶。このカップもこの紅茶も、ここに通っている女の子のお母さんに頂いたものらしい。
「んーん。なんで?」
「悩んでますって顔してるよ?」
楽しそうに笑いながら、隼人くんにつんつん、と眉間を叩かれた。
「話してごらんよ。お兄ちゃんに」
優しい隼人くんの声音に誘われて、きゅっと結んでいた唇がゆっくりと開いていく。
「悩んでるって言っていいのか分かんないんやけど…」
「うん」
「役に立つ、人になりたいの…」
その言葉にえっ?と一度目をまん丸にした隼人くんは、すぐにその目を柔らかく細めて「俺もね、同じこと考えてた」と言った。
「俺さ、昔っからどんくさくて、空気も読めなくて。おおげさじゃなくね、ほんとに友達が風磨と蒼佑しかいなかったんだ。もちろんそれでいいって割り切れてたわけじゃなくて、やっぱりね、誰かの役に立ちたい、誰かに必要とされたいって思ってた」
「…隼人くんも?」
「うん。それをね、風磨に言ったことがあるの。そのとき言われたんだ。お前、そう簡単に人の役に立てると思ってんのか。おこがましいぞって」
「ふふ、厳しいねぇ」
「でしょぉ?」と隼人くんは小さな子どもみたいに頬を膨らませた。
「でもね、こうも言ってくれた。何にもできないならできないなりに、ただそこにいればいい。何も知らない奴に役立たずだって、怠け者だって言われたとしても、そんなことは気にすんな。何もしないでただそこにいる。簡単そうに見えて、できる人は少ない」
「…どういうこと?」
「ふふ、俺もねどういうこと?って聞いた。そしたら風磨が言ったんだ。お前みたいに『誰かの役に立ちたい』ってみんな思うからだろ。意味が欲しいんだ。自分がそこにいる意味。自分は必要な人間だって思い込みたいんだ」
「お前の周りにいる奴は、そんなこと求めていないのに。お前が何の役に立たなくても、ただそこにいてほしいと思っているのに。って」
そこまで言うと「紅茶おいしいでしょ?」と隼人くんは花柄のカップを見つめた。
「この紅茶くれたお母さんにね、ある日言われたんだ。あの子の居場所を作ってくれてありがとう、ここがあることで、私たち親子は救われているんですって…。でもね、ありがとうを言わなきゃいけないのはほんとは俺の方なんだ。あの子たちが来てくれることで、俺の居場所ができた」
「俺は今でも、ただここにいるだけ。何にもしてない。でもこうして集まってきてくれる子どもたちがいて、救われたと思ってくれる人がいて。そして自分自身も救われていて。それってさ、実はすごいことなんじゃないかな?って、やっとね、今少し思えるようになった」
*
*
「だから雪も、ただそこにいてみればいいんじゃないかな。何かの役に立ちたい、好きな人のために何かしたいって思うのは、とても素敵なことだし、ずっと思い続けるべきだと思う。でもね、雪がただそこにいるだけで、救われている人だっているんだよ?」
別れ際、隼人くんは「その雪だるま可愛いね」と、杖に結んだ雪だるまのキーホルダーを指差した。
13年越しに蒼佑くんからもらった宝物。
「…雨?」
フリースクールからの帰り道。上を見上げれば綺麗な青空。それなのに冷たい雨粒が落ちてくる。
「…天気雨?」
晴れているのに雨が降るなんて。まるで笑いながら泣いているみたい。
悲しくて泣くこともある。嬉しくて泣くこともある。涙の理由は決してひとつじゃない。
『雪のおかげで私たちは幸せになれた』
『私たちは雪に救われている』
子どもの頃、ぽたぽたと涙をこぼしながらそう言ってくれた人がいた。その人の涙はとても綺麗で、温かくて。この人が本当のお母さんだったら…って、叶うことのない想いを抱いたんだっけ。
早く家に帰らなきゃ。
4月17日。
明日は春の22歳の誕生日だ。
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