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珍しく、気が昂ぶっている。
禿げた男の姿が消えるのを見送って、自らも仮想空間“トウキョウ・シティ”から抜け出したリンは、黒革張りの椅子に深々ともたれて息をつき、目を閉じた。
時々姿と場所を変えながら長らく潜っていたせいか、さまざまな喧騒がまだ耳に残っている。
遠い世界のことのように、笑い、怒り、媚びる声。
街の猥雑さは、そんなに嫌いじゃないが。
目を閉じていただけのはずが、少しの間寝ていたらしい。
「……」
軽く伸びをして立ち上がり、暗い部屋を出た。
顔を擦りながら仄かな灯りが照らすコンクリート剥き出しの長い廊下を進み、磨りガラス扉を開く。シンプルな調度品に彩られた広いリビングに人影はない。
「……リン?」リビングの隅から声がした。
見遣ると声の主は薄暗い部屋のソファの陰に潜むようにして床に座り込んでいる。リンはソファに歩み寄り、居心地よくなさげに膝を抱えた少女に屈んだ。
「長く放ったらかしにして、ごめん」
「いいの。しばらくひとりでいたかったから」
日頃快活そうな愛らしい顔は沈み、憔悴しきっている。リンは微笑んで返した。
「何か食べて眠るべきだね。今更だけど、お腹は?」
「さすがに空いたわ。……さっき勝手に冷蔵庫のチーズつまんだ」
「何か作るよ。何がいい?」
「パン以外の何かなら嬉しい」
「わかった」
飯物は食べるかなと思いつつ立ち上がった時、
「あなたも寝てないみたいね」
意外な問いにリンは目を細めた。
「まあね。目が痛いよ」
あの男と接触するために、世界の大都市の名を冠した幾つもの空間に二日近く張り込んでいたのだ。目の奥はちかちかと白い星がまたたき、体は頭から足の先まで疲労でずっしりと重い。
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