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1 蟲狩りの試練
ふと気がつくと、知らない場所に立っていた。
今まで自分がどこにいて、何をしていたのか。思い出そうとしたが、記憶に靄がかかったようにはっきりしない。
辺りを見れば、ゆらゆらと川が流れていた。どこまでも続く、長い、長い川。水面から視線を動かすと、自分が立っている場所が土手であることに気がついた。ゆっくりと首を動かす。建物は近くになく、川を渡った遠く向こう側に、ぽつぽつと立っているのが見える。何もない田舎のようだ。けれど、田舎にしては自然もほとんどない。ところどころ枯れ木が項垂れているが、青々しい草葉も、可憐な花々もなかった。
川の反対側に首を向ける。鉄の壁のようなものが、雲の先までそびえ立っていた。それが道なりにずっと続いていて、壁の向こう側がどうなっているのかが分からない。
一体ここはどこなのか。裕史は、ぼんやりと景色を眺めた。
「何よ、ここ……」
思わず、え、と声が出た。振り返ると、艶のある黒髪をポニーテールにした、モデルのようにすらりとした美女が困惑した顔で立っていた。黒いワンピースに黒い靴。少し年上だろうか。目を惹く美しい人だった。
女性は綺麗な瞳を細め、怪しむようにこちらを凝視している。
「あなた、誰? ここはどこ?」
「え……えっと……すみません。オレもよくわからなくて……気づいたらここにいて……」
改めて辺りを見渡したが、人がいない。鳥も虫も飛んでいない。生きているものの気配がまるでなかった。ここにいるのは、自分とこの美女だけ。
何かが変だ。ようやく、今の状況のおかしさに焦りがやってきた。ドクンと、心臓が音を立てる。
裕史は視界の端に何かが入りこんだ気がして、足元に視線を落とした。その何かは、じっとこちらを見ていた。サッカーボールほどの白い球体だった。球体のほとんどを占めている、大きな大きな一つ目が、ぎょろりと動く。
何だこれ――思考が止まる。
白い球体から、人の腕のようなものが生えた。一つ目が閉じられ、開かれる。大きな目は、大きな口に。球体は腕をバネに跳ね上がり、裕史の眼前に迫ってきていた。突然のことに身体は動かない。食われる――寸前、細く白い脚が横切った。球体は吹っ飛び、跳ねて、転がる。
「逃げろ!」
女性の声に、弾かれるように走り出した。あの一体だけじゃない。どこから湧き出したのか、三十、四十ほどがこちらに向かってきていた。
目が二人を捉え、口に変わり食らいつく。わけがわからない。
恐怖で上手く走れなかった。もつれそうになるのを、必死に堪えた。何とか前に進めているのは、姿勢良く前を走る女性のおかげかもしれない。彼女がアレを蹴飛ばしてくれなければ食べられていた。彼女が逃げろと言ってくれなければ、やはり食べられていただろう。
ガクン――膝が折れた。足にあの白い腕が絡みついたのだ。ぎょろぎょろの目と合う。そして、大きな口に変わり――
「ぁ……」
「世話がやける!」
身動きできずにいると、女性がそれを踏んだ。踏み潰した。なんの躊躇いもなく。ぐしゃりと潰れた白い球体は、砂のように消えていった。
女性は裕史を睨むと、ドンと突き飛ばす。宙に浮いたと思った時は、もう落ちていた。斜面を一回転しながら滑落。背中を打ったが、それよりも。
あの人は――慌てて起き上がり見上げると、女性は球体を掴んでは投げ、蹴飛ばし、踏み潰す。懸命に戦っていた。アレは何なのか、ここがどこなのか、どうしてこんな目に。女性がわけのわからないモノと戦っているのに、自分は何もできずにいる情けなさ。色んな感情がごちゃ混ぜで、涙が頬を伝った。結局、一番強い感情は恐怖だった。
「騎士と姫……どちらを選びますか?」
「…………は……?」
いつの間にか、隣に人が立っていた。――いや、人ではない。人のような、獣のような、異形の姿をしている。顔は綿のように柔らかそうな白い毛に覆われ、長い耳と細い目は狐を思わせた。額の辺りに小さな角があり、鬼――と思わず口からこぼれる。その狐のような鬼は、裕史を見ると、フッと笑う。背筋をピンと伸ばし、燕尾服を着ているせいか、礼儀正しい紳士のようだった。
さあ、と開いた口元から鋭い牙が覗き、ドキリとする。
「戦う力なら騎士を、助ける力なら姫を。どちらにするか、おふたりで決めてください。あ、ふたり同じものは選べませんよ」
「……な、何を言って……つか、アンタ、何……」
混乱していると、息を切らせた女性がすぐ側まで来ていたことに気づいた。あの気味の悪い球体も後を追って来る。
女性は叫んだ。
「私が騎士! あなたが姫!」
「は、ちょ……」
「わかりました。では騎士の貴女……手を」
女性はやはり躊躇いがなかった。異形の鬼に向かって手を伸ばす。
地面からスーッと何かが出てきた。日本刀だ。そう認識した時には、すでに女性がそれを掴み、抜刀し、薙ぎ払っていた。
「お見事」
鬼が楽しげに笑う。
女性は次々に球体を斬り伏せていった。簡単に刀を振るっているが、使ったことがあるのだろうか。あの躊躇のなさといい、なぜあんなにも動けるのか。体も、心も。歳もそんなに変わらないだろうに。
「なんなんだよ……意味わかんねぇ……」
自分は――裕史は唇を噛んだ。ただただ混乱して、状況を受け入れることを拒んでいると、そう感じた。
「ぼんやりしてると、ほら……」
「え?」
喰われるぞ――腹に響く、獣が唸るような低い声だった。ハッとした裕史は、視線を落とした。大きく開いた口が見えて、咄嗟に足を引く。ガチン、と歯と歯がぶつかる音がした。
思わず息を呑む。先ほど女性がそうしたように、踏み潰せばいい。足を上げて、思いっきり。
だが、上げることができなかった。踏み潰す前に、足が喰い千切られる可能性を考えてしまった。頭を過ぎってしまった。一度過ぎってしまえば、振り払うことはもうできない。震える足は地面にぴったりとくっつき、離れることができない。
「この期に及んで……。貴方はだいぶ臆病なんですねぇ……。仕方ありません。サービスしましょう」
鬼がため息を吐いたと思ったら、あの球体が突如真っ二つになった。何が起きたかわからなかったが、この鬼が何かしたことは理解できた。助けてくれた、のだろうか。
鬼がやれやれと首を振る。
「この程度の蟲に死を感じていたら、この先やっていけませんよ?」
「蟲? あの気味の悪いのがそうなの?」
女性がスタスタとやって来る。すべて斬ってしまったらしく、不気味な球体はもうどこにもいなかった。
「ええ。あの蟲を狩ること。それが貴方たちへの試練です」
「試練……?」
「サービス分合わせて五十体。姫の貴方に、硬貨を一枚差し上げましょう。次からは百体につき一枚となりますので……」
「…………は?」
手の中に何かが落ちた。握っていた拳を開くと、百円玉に似た硬貨が一枚乗っていた。硬貨には見覚えのある模様が描かれている。これは確か、六文銭、だっただろうか。戦国武将に詳しいわけではないが、漫画やゲームなどで見たことがある。
それと、もう片方の手にはスマホのようなもの。もちろん裕史のものではない。自分のは持ってないと、この時気づいた。
「ねえ、あなたは一体何者? ここはどこ? さっきの蟲って……何なの」
女性が鬼に詰め寄る。日本刀を持っていることもあってか、なかなかの迫力だ。
ふむ、と鬼は少し考えたあと、恭しく頭を垂れた。
「私はキコと申します。案内人とでも思ってください。先ほども言いましたが、あなた方にはここで蟲狩りの試練を受けてもらいます。いえ、受けなければならない」
「意味がわからないわ。そんな勝手な話をされて、はい受けます、なんて言うと思う?」
「拒否すれば蟲どもに喰われるだけ……まあ、それでも構わないならご自由にどうぞ。ただ、この試練はあなた方の為であると言っておきましょう。見事生き抜けたら、イイコトがあるかもしれません」
ニィ、と牙を剥き出してキコは笑った。ぞくりとする笑顔に、裕史の足が竦む。
「ああ、それから。姫は普通に死にますが、騎士の貴女はたとえ殺しても死ぬことはありません。ですが、姫が死ねば騎士も死んでしまうのでご注意を」
「は……? それどういう――」
「では、頑張ってください」
キコは軽くお辞儀をすると、待てという裕史の叫びと共に霞のように消えてしまった。
ここがどこなのか、蟲とは何なのか、騎士だの姫だの、ろくな説明もないとは一体どういうことなのか。案内人だと言うなら、しっかり役目を果たすべきじゃないのか。
少しずつ現状に慣れてきたからか、ふつふつと、恐怖が怒りに変わってきた。それでも、やはり恐怖が多くを占めている。こんな、わけがわからないこと。本当に実際に起きていることなのか、夢なんじゃないのか、疑う気持ちは拭えない。拭いたくない、が正しいかもしれない。
こんな最悪、早く醒めてくれたらいいのに。
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