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「ちょっと、あなた」
声をかけられ、はっとした。女性が眉を寄せ睨んでくる。
「名前は?」
「か……上木裕史……です……」
「ヒロフミ……ね……。私は鮎原奈緒。ナオでいいわ」
「は、はぁ……」
キリッとした女性だった。蟲と戦う姿も凛としていて、強い人だというのはよく分かる。何もできなかった裕史と違い、瞬時にすべき行動を取ることができる人。
湧き上がった感情、これは劣等感だろうか。裕史は苦い顔をしながら視線を逸した。
「とりあえず、あのキコってやつに従うしかないわね」
「え……あの気色悪い……蟲ってのを探すつもりですか……?」
「今はそうするしかないでしょう。ここがどこかわからないし、あの蟲を狩っていけば、またキコが現れるかもしれない」
「そうかもしれない……けど……」
「さ、行くわよ」
「え……ちょ……」
スタスタと奈緒は歩いていく。川上の方へ向かうつもりらしい。裕史はその後ろを、肩を落としながら追いかけた。こういう、強気でてきぱきした女性は苦手だ。心の中でぼやく。
「ヒロフミ」
「あ、はい」
「戦うのは私がやるから、あなたは身を守ることだけ考えて」
「え……それは……」
「さっき言われたでしょう。私は殺されても死なないって。でも、あなたが死ねば私も死ぬ」
「……確かにそんな事言ってましたけど、殺されても死なないとか……意味がわからないっていうか……」
くるり、奈緒が振り返る。裕史に歩み寄り、自身の腕を差し出した。ベタッと血がついていて、裕史は息を呑んだ。
「あの蟲を殴った時、噛みつかれてケガをしたのよ。でも、今は傷もない。いつの間にか塞がってたみたい」
「塞がって……? 治ったってことですか?」
「死なない、というのは、多分こういう意味なんでしょう。いくらケガをしても治ってしまう。ヒロフミ、あなたが生きている限り」
奈緒の鋭い眼光に、裕史は萎縮する。死んだら許さない、そう言っているようだった。
「あ、あの、鮎原さん……」
「ナオでいい。名字、嫌いなの」
「な、奈緒さん……。これ……硬貨なんですけど……」
「さっき貰ったものね。百体で一枚になるとか言ってたわね」
「はい……六文銭ってやつが描かれてて……」
硬貨を奈緒の手のひらに置く――が、するりと手のひらをすり抜けてしまった。そのまま落下し、砂利とぶつかって、ちりんと鈴のような音が響く。裕史が触れてみると、確かに感触があり持つこともできる。
「なんで……」
「どうやら、それはヒロフミじゃないと触れられないみたいね」
「……みたいですね」
「それにしても……六文銭……」
奈緒はぶつぶつと呟きながら、川を見つめた。難しそうな顔をしている。何か気づいたことでもあるのだろうか。
「……ヒロフミ。あなたは、ここに来る直前どこで何をしていたか……覚えている?」
言われて、裕史の脳は自然と記憶を辿っていった。
意味不明なこの場所に来る前――あれ、と裕史の頬を冷や汗が伝った。学校のこと、家族のこと、好きなもの嫌いなもの。思い出すことは沢山あるのに、今日がいつで、何をしていたのか、どこにいたのかも分からなかった。制服である紺のブレザーを着ているため、学校があったことは確かなはずだが。
「わからないみたいね」
「すみません……」
「私もわからないの。何か大事なことがあったはずなんだけど……思い出せない」
「記憶もアイツに何かされた……とか?」
「どうかしらね。でも、今私たちはここにいて、試練ってのに挑まされている。混乱はあるけれど、やる事が決まっているのは楽だわ」
裕史は顔を顰めた。あんなものと戦わなければならないのに、楽だと言えるだろうか。彼女の言うことも理解はできる。どうしていいかわからずにいるよりは、為すべき事が示されている方が確かに楽ではある。従えばいいだけなのだから。ただしそれは、自分に害がない場合だ。生死がかかっている状況を、楽だとはとても言えないだろう。
この人とは気が合わない……。裕史は、先行き不安だと肩を落とした。
「とにかく、移動しましょう。さっき、向こうの方に建物が見えたわ。何かはわからなかったけど……とりあえずそこを目指すのがいいかと思って。もしかしたら、私たち以外にも人がいるかもしれないし」
「あ、オレも見ました。川の向こう側でしたよね」
「ええ。だから、この川を渡らないといけないんだけど……」
川幅は五、六十メートルくらいだろうか。流れは緩やかのようだが、深さがよくわからない。濁っているわけではないが、底が暗く闇が広がっているようだった。
「泳いでいける距離ね」
「え……! まさか……」
「何? 泳げないとか?」
「泳ぎは得意ではないですけど……や、そうじゃなくて、何があるか分からない中に飛び込むのは危険ってことです! この水自体大丈夫なのかとか、とんでもなく深いかもしれないし……。もし川の中に蟲がいたら、対処できないじゃないですか」
「…………」
奈緒の目が丸くなる。
「……そうね、確かにあなたの言う通りだわ。少し焦りがあったみたい。ごめんなさい」
「あ……い、いえ……」
素直に謝られるとは思わなかった。裕史はバツが悪そうに目を逸らす。我が強く、こちらの話など聞いてくれない人だと勝手に思っていた。決めつけていた自分が恥ずかしくなる。裕史は、誤魔化すように言葉を捻り出した。
「か、川があるなら橋……とかあるかも……」
「橋……」
呟きながら、奈緒は川上を見る。やはり、あちらに向かって歩いていくのがいいのだろう。橋がある確証はないが、ここにいても仕方がない。ふたりは顔を見合せると、歩き難い砂利道を避けるため土手に上った。奈緒が姿勢よく前を歩き、その後ろを緊張気味に裕史が続く。いつまた、あの蟲が出てくるか分からない。「死」を意識して、手からじわりと汗が滲む。
ふと、そびえ立つ鉄の壁が気になり目を向けた。横にも縦にも、遙か先まで続いている。向こうには何があるのか。この場所から出られたりするのか。それとも、蟲がうじゃうじゃ居たりするのだろうか――ぞくりとして、裕史は首を左右に振った。分からないことを考えても、浮かぶのはネガティブなことだけだ。今は、目の前のことを。
裕史が眼前を見据えると、ポニーテールが大きく揺れた。奈緒が刀を構えている。
「ひっ、な、奈緒さん……」
「動かないで。数は少ないみたいだし、これならすぐに斬り伏せられる」
裕史はこくりと頷いた。
蟲は五匹。こちらに気づいていないのか、まるで話をしているかのように、お互いくっついている。
奈緒はすらりと刀を抜くと、勢いよく地を蹴った。斬られた三匹が宙を舞い、残った二匹は、
「え……と、共喰い!?」
そんなこともするのかと、裕史が驚きで声を上げた。
一匹がもう一匹を喰らった。喰われた方は抵抗することなく、受け入れている。ごくん――飲み込んだ蟲は鋭い刃によって真っ二つになった。
「…………」
「これって、二匹倒したことになるのかしら。それとも一匹としてカウントされるのかしらね」
「ど、どうでしょうね……? というか、今、あの蟲少し大きくなりませんでした……?」
「そう?」
周囲を見渡し、蟲がいないことを確認した奈緒は刀を収めた。細かいことは気にしないようで、共喰いしたこともどうでもいいような感じだ。
だが――裕史の心に不安が過ぎる。見間違えていなければ、確かに蟲の体が大きくなっていた。もし、共喰いしたことによって大きくなるのだとしたら。
俯き、地面を見つめる。よく見ると、綺麗に舗装されている道だった。足元が僅かに陰り、顔を上げる。綺麗な瞳と自身のものがぶつかって、心臓が跳ねた。
「ヒロフミ」
「は、はい」
「あなたは色々考えちゃうタイプみたいだけど、今からそんなに頭を悩ませてたら疲れるだけよ」
「……でも……可能性を考えておくのは大事なことだと……」
「そうね。さっき川を泳いで渡ろうとした私が言うのもなんだけど……。でもそれはそれ。可能性に縛られてたら、身動きできないわ。今は目の前のことすら、よくわかってないんだもの」
奈緒の言い方からすると、裕史が危惧した可能性は彼女も思ったことなのかもしれない。それでも、目の前のことをやるしかない。だからやるのだと、奈緒は言うのだろう。先ほど、裕史自身もネガティブなこと考えてしまうからと、今は鉄の壁を気にしないようにしようと思ったばかりだ。奈緒に反論することはできなかった。
「それに、あなたが考えるべき事は他にあるでしょう?」
「他に?」
「その硬貨とスマホを何に使うのか、ってこと。騎士が戦うことなら、当然、それは姫の役割でしょうし」
「あ……あぁ……そう……ですね……」
姫、という言葉が重くのしかかる。試練に挑むための役割が与えられた、というのは何となく理解はした。しかし、なぜ姫と騎士なのか。キコは戦う力と助ける力と言っていた。戦うのも助けるのも、騎士だと思うが。むしろ、お姫様は助けられる側だろう。実際何度も奈緒に助けられた。情けない――思い出して、肩を落とす。
裕史はブレザーのポケットに入れていたスマホを取り出す。スマホと言っても、電源を入れるボタンもマイクもカメラもついていない。ただの白くて四角い機器の、真っ暗な画面に触れる。ポンッ。軽快な音が鳴った。裕史の手から跳ね上がったスマホは、ぐにゃりと丸い形状に変わっていく。それは小さな蟲のようで身構えたが、上部に二本の角のようなものが生えると、可愛らしい生き物に見えた。ぱちぱちと瞬いた二つの円な目。
「おはようございます! 姫様」
「……しゃ、喋った!」
「それはもちろん喋りますよー。何せわたくし、小鬼ですゆえ」
「こ、小鬼……?」
ふよふよ、裕史の周りを飛ぶ。可愛い、と素直に思える見た目だ。
「わたくし、キコ様の眷属でございますー。姫様のサポートを任されましたー! ので! どうぞよろしくでっす」
「サポート……」
「はい! 試練突破目指して頑張りまばばばばばっ」
奈緒が小鬼を結構な力で握りしめた。じたばた、小さな手を振って暴れる小鬼には申し訳ないが、可愛いと頬が緩む。
「アイツの眷属? なら、ここのこと知ってるのよね。話してもらうわ」
「乱暴! なんという暴力! 良いですね、とても! この場所にお似合いの力です! ですが」
小鬼はつきたての餅のように伸びると、奈緒の手から抜け出した。また丸い形状になり、小さな目が細くなる。
「試練に挑むのは姫様たちですゆえ、わたくしができることは、最小限! キコ様の許可なく、この世界について勝手にお話することはできませーん!」
「なら、話せることだけ言いなさい」
「無駄がない! ……まあ、いいでしょう」
小鬼は裕史の肩に降りると、ふー、とひと息つく。
「わたくしの役割を伝えておきましょう。蟲を狩ることで手に入れられる硬貨……当然、硬貨ですからお金として使います。お買い物ができます。以上」
「……以上!?」
「役割を伝えるんじゃなかったのかしら?」
「ですから、そういうことですよー。さて、わたくしスリープモードに入らせて頂きます。一応、スマホらしく充電が必要になりますので。小鬼は電池食いますゆえ、省エネしなくては! では、姫様……貴方様が生き延びられますよう祈っております……そう、祈るだけでっす!」
小鬼が目を閉じると、四角いスマホに戻り、裕史の手のひらに落ちる。真っ暗だった画面には、電池残量を表すマーク――90%とあった。そして『今、必要なものはありますか?』の文字。
裕史はポケットから硬貨を取り出す。この六文銭が描かれた硬貨を使って買い物ができるという事は、この小鬼スマホはカタログの役割をするのかもしれない。少し考えたあと、裕史は小鬼スマホと硬貨をポケットに入れた。
「見ないの?」
「今すぐ、必要なものが何なのか浮かばないので……。いじってる間に電池切れになっても困りますから……充電をどうするのかわかりませんし。どこかにそういうことができる場所があるのか、もしそれも買うものであったなら、硬貨を貯めないと」
少しは心が落ち着いてきたとはいえ、未だ脳内は混乱中。どうせ、あれこれと悩んでしまうのだ。そんな状態では、無駄に電池を減らすだけだろう。
「そう。あなたがそう決めたならそれでいいわ」
「奈緒さんには……その、蟲を狩ってもらう必要が……」
「最初からそのつもりだったでしょう。遠慮なんていらないわ」
「はい……」
「フフ、少しは元気になったのかしら?」
「うっ……そう見えるなら、多分小鬼のおかげかもしれません……」
やたらと明るく、緊張感のない喋り方。可愛らしい見た目もあり、ホッとしてしまったのだ。
じゃあ行きましょう、と奈緒は進んでいく。今、彼女も自然に笑っていた。無表情と、嫌悪と凛々しさと険しさ。そんな顔ばかりだった。こんな訳のわからない所にいるのだから、それも当然だ。笑えるはずはない。けれど、ここに来て初めて、人らしい空気感が確かにあった。
裕史はポケットを触ってスマホと硬貨があることを確認すると、しっかりと地を踏みしめた。
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