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「これで……二百!」
ヒュン――風を切る音が聞こえた。さらさらと砂のように消えていく蟲を見るのも、だいぶ慣れてきたように思う。
奈緒が刀を鞘に収めると、裕史の手に硬貨が落ちた。最初の五十体分の一枚と合わせて三枚。百体で一枚というのは、割に合わない気がする。百体狩るのに、一体どれだけの労力か。
裕史はちらりと奈緒を見た。もうずっと戦いっぱなしだ。顔には出ていないが、肩で息をしている。疲労の色ははっきりしていた。戦うことは奈緒ひとりに任せ、自分はただ見ているだけ。代わったところで、大して役に立てないだろう。それでも、もどかしさのようなものは徐々に胸の内に溜まっていっている。
「奈緒さん、休憩しますか……?」
「必要ないわ。それに、こんな所で休んでも、休んだ気がしないでしょう」
そうですけど、と裕史は言葉を詰まらせた。川沿いにずっと歩いてきているが、景色は変わらず、段々と嫌気が差していた。本当に何もない所だ。だが、遠くにあった建物には近づいていた。まだあれが何かは分からないが、黒い色の外壁と二階建てほどの高さのようだ。できれば、誰か人がいてくれるといいのだが。蟲以外の生物がいないため、望みは薄いとわかっていても、心のどこかで期待はしてしまう。
裕史は前を歩く奈緒の背を見つめた。疲れなど感じさせないように、凛と背筋を伸ばしきびきび歩いている。身長はあまり変わらないのに、その背は細く小さい。この背に守られてばかりだ。裕史は奈緒の背から視線を外す。その先に、日本刀が揺れていた。
「そういえば、奈緒さんは刀の扱いに慣れてる気がするんですけど……何かやってたんですか?」
「……祖父が殺陣師だったのよ。少し教えてもらった程度ね。刀も本物を握ったことがあるけど……こんな風に振るったことはないわ」
「殺陣師……! カッコイイですね。でも、それであんなに戦えるものなんですか?」
「最初は無我夢中だったけど……やたらしっくりくるのよね……この刀。軽いし」
「軽いんですか?」
「ええ。まるで、私のためだけに用意されてたみたいな扱いやすさね。体も軽い気がするし……運動能力が上がっているみたい。自分の体なのに、自分のじゃないみたいな、変な感覚があるわ」
「そうなんですか……」
戦いやすいように、ということだろうか。ケガをしてもすぐに治ってしまうこともあり、普通じゃない状態なのは確かではある。それなら、自分も多少は強化のようなものがされているのではないだろうか。そう思ったが、例えそうであっても、前に出て戦えるほどではないだろう。死んでしまえばそれで終わり。奈緒も道連れだ。
「……ヒロフミ」
立ち止まった奈緒の声音は、珍しく困惑しているようだった。
「橋……あったわよ」
「本当ですか!?」
「おかしなのが塞いでるけどね」
え、と不安気に裕史も奈緒が見ている先に視線を向ける。
石造りの橋だった。見た感じは頑丈そうだ。しかし、それより。橋のど真ん中にいるヤツに呆気にとられた。あれも蟲なのだろうか。十メートルはありそうな、巨大な蟲。奈緒が困惑するのも当然だった。
「……アレ、蟲……ですよね……」
「そうね……何体喰ったらあの大きさになるのかしら」
「やっぱり共喰いの……」
「でしょうね。大きくなっていたもの。あなたの考え、合ってたんじゃない?」
想定していたでしょう、と奈緒は言ったようだった。確かに、その通りだ。共喰いを目にした時、体が大きくなった時、もし共喰いを続けたら、と。最悪を考えそうになった。奈緒がそれを制止しなければ、どこまでも考えていたかもしれない。
奈緒は深く長い息を吐いた。チャキ――刀を構える。
「な、奈緒さん……? まさか、戦うんですか!?」
「それしかないわよ。私たちは川を渡るための橋を探してた。そして、蟲を狩らないといけない。やらない理由、ある?」
「いやそうですけど! 躊躇いってものなさすぎじゃないですか!?」
「ここでうだうだして、好転するの?」
裕史は言葉を詰まらせた。いちいち正論。なのだが、そこに感情がついていくとは限らない。戦うのは奈緒であり、裕史ではない。死ぬことがない奈緒は、思い切った行動ができるのかもしれない。それにしたって。
恐怖心はないのだろうか――奈緒に対して引いている自分の心に蓋をする。ぐっと、拳を握った。
「勝算……とか、あるんですか?」
「ないわよ。ただ、あいつら動きが単調なのよ。目で見て確認してから喰いついてきたでしょう? それに、真っ直ぐに突っ込んでくるだけ……対処はしやすいわ。アレも同じなら、何とかなる」
「そうですか……わかりました。気をつけてください」
「ええ。あなたは自分の身を守ることを考えて。すぐに駆けつけられるかわからないから」
「はい」
ぐっと、奈緒は足に力を込めた。緊張感が漂う――ぴんと糸が張った瞬間、駆け出した。人間離れした速さだった。蟲の目がどこにあるかわからないが、奈緒に気づく様子はない。
刃先が蟲に届く。突き刺し、捻り、刀の向きを変えた。
体に合わせたような巨大な目が、奈緒を捉えた。突き刺さる刀に痛みを感じているのかはわからない。ただ、ぎょろりと、目玉が動く。
さすがに、奈緒も怯んだようだった。離れて見ている裕史ですら身が竦むのだ。すぐ目の前にある巨大な目玉に見つめられ、怖いという感情が湧かないはずがない。
それでも――奈緒が怯んだのは一瞬で、すぐに表情を引き締めた。そのまま横に薙ぎ払う。
蟲に血や体液は存在しない。どうやって生きているのか、そもそも生物なのかもわからないが、蟲たちの目的は「喰らう」ことのようだった。腹を満たすためとは思えないが、とにかく、喰らいつく――刀傷など、関係がないかのように。
「奈緒さん!」
裕史は思わず叫んだ。あれだけの大きさだ。人間など丸飲みにできる。
寸前で、奈緒は身を躱した。巨体が揺れ、ぶるぶると波打つ。一体どうやって倒せばいいのか。裕史には見当もつかない。が、奈緒は踏み込んだ。その一歩を踏み出せる人だった。斬りつけ、また斬りつけ、躱す。
動きは単調だと言っていたが、確かに。蟲は目で見て、口に変わり、喰らう。その繰り返しだ。目と口は同時に存在しない。それをわかっていれば、対処できるだろう。実際に体が動くかは別の話だが。
ツー、と裕史の頬を汗が伝った。こんな光景、映画やゲームの中だけにしてほしい。それが今、目の前で起きていることだなんて。
何度も何度も、奈緒が蟲を斬り続けていくと、徐々に蟲の体が小さくなってきたようだった。一体分ずつ確実に減っている。そんな気がして、裕史は僅かに口角を上げた。この調子なら――それは、油断でもあった。奴らにあるのは、目と口だけではない。腕が生えるのだ。今、裕史の脚に絡みついているように。
「ひっ……!」
慌てて手で払った。腕の力はそんなになく、蟲は簡単に地面に転がった。たった数匹。たった数匹が、裕史をぎょろぎょろと見つめている。
「ヒロフミ!」
奈緒の声が聞こえて、助けを求めるように振り向く――バクン。見たのは、奈緒が蟲の腕に掴まれ喰われたところだった。オレを気にしたせいだ、と。その瞬間、裕史は自分を責めた。それでも、考えるのは自分の身を守ること。奈緒が喰われたことより、今、この数匹の小さな蟲から逃れることだった。
なぜ自分はこうなのか――裕史は歯を食いしばり、震える手でスマホを取り出した。喰いついてくる蟲を無様に躱し、画面に触れる。
ずらり、文字が並んでいた。けれどそれを全て見る暇はない。蟲に注意しながら、ちらちら画面に目を配り、読み取れた文字は「盾」だった。
「盾……! え、どうすんだよこれ、おい、小鬼……!」
小鬼は応えない。焦る裕史の耳に、チャリン――硬貨が落ちる音が聞こえた。そして、突然の重み。重さはそれほどではないものの、急にそれが腕にかかったことに驚いて、体ごと地面に持っていかれる。その拍子に、蟲を潰していた。そっと持ち上げたのは、ゲームなどで主人公が持っているような、丸い盾。
「ヒロフミ! 無事!?」
「え、あ、奈緒さん……! よかった……!」
残っていた蟲を奈緒が斬り伏せる。ほっとする間もなく、奈緒は裕史から盾を奪うと、また逆戻り。あの巨大な蟲は、だいぶ小さくなっていた。腕を足のように使いながら奈緒を目掛けて襲ってくる。
西洋風の盾と日本刀を構えた奈緒は、そのまま蟲に突っ込んでいった。蟲が口を開ければ盾を噛ませ、横から刀を刺す。蟲に学習能力はなく、何度か同じことを繰り返すと、やがて消滅した。
裕史の手に硬貨が落ちる。
「……ハァ、百体分だったのね、あの大きいの」
「……そうですね…………」
奈緒はその場で崩れるように膝をついた。呼吸が苦しそうだ。
裕史は辺りを見渡し、蟲の姿がないことを確認すると、ゆっくりと奈緒に近づき正座をした。
「奈緒さん……本当によかったです。無事で……喰われた時はどうしようかと……」
「そうね。さすがに私も驚いたわ。多分、一回溶かされたと思うし」
「……はい?」
「消化液があったわけじゃないんだけど、何て言ったらいいのかしら……とにかく、体が溶けたのよ。瞬時に栄養にされ……いえ、あれは同化? まあ、そんな感じ」
淡々とした口調で、とても恐ろしいことを言っている。裕史の顔が真っ青になった。そんな状態で、駆けつけてくれたのか。
「奈緒さん……すみません……オレ、自分のことばっかで……。自分が助かることばかり考えた」
「何で謝るのよ?」
「え? 何でって……だって……」
「正しいことでしょう。自分の身を守れって、私言ったわよ」
「それはそうですけど、でも……!」
「自分の身を一番に考えるのは正しいことよ。あなたは何も間違ってない。それに、私は死なないわけだし。優先すべきはヒロフミの命なんだから、忘れないで」
裕史は返事をすることができなかった。奈緒は正しい。ここでは、騎士である彼女に死はない。死ぬ時は、姫である裕史が死んだ時だ。一蓮托生。それはわかっているけれど。
気持ちは、ついてはこなかった。
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