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無言のまま、五分ほど経っただろうか。深呼吸を繰り返した奈緒が立ち上がると、裕史も慌てて立ち上がった。こんな所でゆっくりしていられないとはいえ、もう出発とは。呼吸もまだ整いきれていないだろうに。でも、彼女はそういう人だともう理解している。躊躇うことなく、止まることもなく、どんどん前に進んでいく人だ。
「この盾、ヒロフミが持ってて。使い方はわかるわね?」
「あ、はい。奈緒さんを見てたので……」
「そう。ところで、これは買ったってことでいいのかしら?」
「そうだと思います。一枚、減ってるので……」
今持ってる硬貨は全部で三枚。まだ、何が買えるのか把握していないが、盾に一枚と思うと三枚は心許ない。
「あの大きさ一体で一枚なら、小さいの狩るより効率よさそうかしら……」
ぶつぶつ、とんでもないことを口にする。裕史は眉根をいっぱいに寄せた。あんなもの、そうそういてたまるか。話題を変えようと、裕史は考えを巡らせる。ああ、そういえば、
「なんか、ゲームみたいですよね」
「……ゲーム?」
「次々出てくる敵を倒すのとか、日本刀とか、お助けキャラの小鬼とか、敵を倒して手に入れるお金で装備を買う、とか……」
「…………なるほど」
「え? なるほどって……? まさか、本当にゲームの世界とか……」
「漫画読みすぎじゃない? 私が言いたいのは、システムのことよ」
「システム?」
「この世界のシステム」
誰が何の為に、この世界を構築したのか。奈緒はそう言った。この世界――現実ではあり得ない世界。ゲームの世界だと言われれば納得してしまうような、この世界。
「残念ながら、痛みは本当にあるわ。溶かされた時の激痛は正直、もう味わいたくない。あの痛みがニセモノなんてないでしょう。だからこれは現実」
「……死なないのに、痛みが……?」
「当たり前でしょう?」
「ですよね……や、わかってましたけど……」
何事もなかったような顔で駆けつけてくれたから。痛みにも強くなったのだと勝手に思った。けれど、彼女は激痛だと口にした。味わいたくないとも。奈緒がそう言うのなら、恐らく、裕史が思う以上の痛みなのだろう。
それを、これからも見続けなければならないのか――あまりにおぞましい。他人の痛みを見ながら、自分は安全地帯にいなければならない。なぜ、そんなシステムなのか。
ピン、と。額が弾かれた。小さな痛みが走って、裕史は目を瞬かせる。
「あなた、また余計な考えごとしてたでしょ」
「え、あ……いえ……」
「いいのよ。私は。別にあなたを恨んだりしないわ。私が騎士になると勝手に決めたのだし。痛いだけで死ぬわけじゃないと、わかってるわけだしね。あなたも腹を括りなさい」
「……はい」
裕史は頷いた。到底、受け入れていいことではない。騎士じゃなくてよかったと、そう安心してしまう心は確かに存在している。それが自分の弱さであることもわかっている。けれど、抱えなくてはいけないとも、よく理解している。奈緒の痛みは、自分の分も背負ってくれているのだと。
「さ、行きましょ。ぼんやりしてたら日が暮れ……るのかしら。天気、変わらないわね」
「そういえばそうですね……。ここに来てどのくらい時間経ったかわからないし……」
「まあいいわ。さっさと橋を渡りましょう」
くるり、ポニーテールが揺れる。
裕史はそっと額に触れた。まだ僅かに残る痛み――確かな痛み。忘れてはいけない。そう強く言い聞かせ、きびきび歩く奈緒の後ろ姿を追った。
石造りの橋を渡り、対岸へと踏み入れる。景色は変わらない。だが、どこかひんやりとした空気感があった。纏わり付くような、何かが心の内に入り込んでくるような、薄気味悪い感覚だった。
何度か蟲の群れに遭遇したが、奈緒が全て薙ぎ払いながら進むと、ようやくそれが何なのかがわかった。
「家……」
普通の民家だった。外壁が黒いだけの、よく見る二階建ての家。ぽつんと寂しげに建っている。
「パンパカパーン! おめでとうございます! 休息場にご到着でーす!」
ポンという軽快な音と共に、裕史のポケットから飛び出した小鬼がくるくる回り出した。何やら祝福しているが、疲れが一気に出たのか反応ができない。
「おやぁ……顔色悪いですねぇ。さぞ大変な道のりだったのであばばばばば!」
むんずと奈緒に掴まれ、小鬼は手をばたつかせる。
「暴力賛成ー! しかし蟲に対してでーす!」
小鬼はやはり餅のように伸び、奈緒の手から逃れる。先ほどはこの能天気さに救われたが、疲れている今は厳しいものがあった。奈緒が苛々しているのも伝わって、よりしんどい。
裕史は言葉短く小鬼に訊ねた。
「休息場って?」
「そのまんまの意味ですよ姫様。点在する建造物は、特殊な結界が張ってあり蟲は入ってきません。なので、安心安全に身体を休めることができます!」
「そんなのあるのか……」
「はい! 六時間で硬貨一枚、十二時間で二枚、まるっと一日だと五枚必要でーす!」
「……ヒロフミ、今何枚?」
「えっと……道中狩ったのと合わせて……五枚です」
「じゃ、六時間ね」
だと思った。裕史はがくりと肩を落とした。一日、せめて十二時間は欲しい。だが、何があるかわからない。節約は大事だろう。
「そこはご安心を! 初回は無料ですよ。小鬼の充電もここでできます!」
「そうなのか! なら一日……」
「十二時間まで無料でーす! 人生ままならないものですね!」
「あっ、そう……」
お前が言うな、と思ったが口には出さず、裕史と奈緒は玄関の扉を開けた。
中も普通だった。どこかの家族が住んでいるような、掃除が行き届いた生活感のある家。壁にかかるデジタル時計が少し違和感があるけれど。と、よく見ると数字が減っていっている。無料は十二時間まで――カウントダウンだとわかり、ため息が出た。
リビングにはテレビとテーブル、ソファがあり、裕史はテレビの電源を入れた。砂嵐。チャンネルを変える。砂嵐、砂嵐――何も映っていない。というか、これはブラウン管なのでは。なぜそんな古いものが置いてあるのか――電源を切り、奈緒に目を向ける。奈緒は冷蔵庫を開けていた。
「何か入ってますか?」
「食べ物があるわ。飲み物もね」
奈緒は冷蔵庫から取り出したペットボトルを裕史に投げた。ラベルはないが、ミネラルウォーターだろう。蓋を開け喉を潤すと、身体に染み渡るのを感じた。ミネラルウォーターをここまで美味しいと感じたのは初めてだ。
「って! 普通に飲んじゃったけど、よかったのか!?」
「大丈夫ですよー。中にあるものはご自由にお使いください! お金もかかりません」
「はぁ……ならよかった……」
「では、注意事項をお話しておきましょう。今回は無料ですが、基本的に建造物の使用は先ほど言った通りお金が必要です。再利用する場合、時間に限らず十枚必要になりますので」
「それは続けて使う場合、ってことかしら?」
「そうでーす! 二十四時間経過していれば、また基本料金でご使用できまっす!」
「基本料金って……」
ここにずっと滞在できないようにするためだろうか。
しかし、何にせよ。蟲が入ってこないのなら、安心して休むことができる。それだけでも、十分ありがたかった。
「ヒロフミ、おにぎりがあったから、食べておきなさい」
「あ……はい……あまり食欲ないけど……」
「それでもよ。私はシャワー浴びてから食べるから。……あるんでしょう?」
「もちろん! 入浴剤には疲労回復効果もありますから、湯船に浸かるといいですよ!」
「そう。着替えは?」
「洗濯機をご利用ください。お風呂に入ってる間に乾燥まで終わらせますよ!」
「わかったわ」
奈緒が部屋を出ると、裕史はソファに体を沈めた。心地のいい感触に包まれ、ほう、と息を吐く。
「姫様ー、おにぎりどうぞー!」
ふよふよ、小鬼が頭に皿を乗せながら飛んでくる。お礼を言って、一口。ほわっとした米の食感とほどよい塩味が絶妙だった。うまい、と思わず言葉が零れる。中身の梅干しも美味しい。
「……これ、誰が用意したんだ?」
「気になりますかー?」
「そりゃまあ……ここ、誰もいないよな……?」
「ふっふっふ。そういうシステム、なんですよ」
「……聞いてたのか」
「はい。小鬼は爆睡モードでしたが、媒体はスマホなので! しっかり記録はしています!」
「……爆睡モード……もしかして、オレの呼びかけに応えなかったのは……」
てへ、と小鬼は愛嬌をふりまくように丸い体をくねらせた。可愛い。可愛いが、このやろうと怒りの感情は湧く。
「そうそう。先ほど、奈緒さんと面白い話をしていましたね。ゲームのようなシステムを、誰が何の為に……と」
「教えてくれるのか?」
「いいえ。それはできません。でも、ゲームのようだと思うのはいいことですよ!」
「……ゲームじゃない、んだよな?」
「ゲームの世界ではないと断言はしておきましょう。そんなお気楽な場所じゃないんですよねぇ……。死んだらそこで終わりですし。でも、ゲームだと思えば楽しく試練に挑めますからね!」
楽しく――そんな風には思えない。生死がかかっているのだから。それでも、ゲームだと思うのはいいことと言われ、ほんの少し気が楽になった。死んだらそこで終わりと小鬼が言った通り、コンテニューも、もちろんリセットもないのだろうけれど。
窓の外を見る。景色は当然変わらない。殺風景な中に川が流れているだけの、つまらない世界。
「……なあ、あの川ってなんなんだ?」
「川が気になりますか?」
「ここは蟲の他に生き物がいない、無機質な感じだろ。でも、川は流れてる。あそこだけ時間があるみたいで、気持ち悪いっていうか……」
「フフッ」
「なんだよ」
「いいえ。そうですね、わたくしから言えるとしたら、川には入らない方がいいということでしょうか」
「え?」
「入ったから死ぬ、というわけではありません。泳げないわけでもありません。でも、あの川は闇のようなもの。知らずに入れば、囚われてしまうかもしれません」
「何に……?」
小鬼はそれ以上は言わなかった。言えないのだとしたら、何か重要なことなのかもしれない。あの時、泳いで渡らなくて正解だったようで安心した。
ぼんやり、眠気がやってきた。とにかく疲れた、と。目を瞑る。起きたら、自分の部屋――そうであればいいのに。全部夢だったと、そう笑えたら――
「ヒロフミ」
「ふぁ、は、はいっ」
ハッとして、裕史は勢いよく体を起こした。呆れたような奈緒の顔があって、涎でも出ていたかと慌てて口元を拭う。
「二階に寝室があったわ。眠るなら、ちゃんとベッドで寝なさい。お風呂も入った方がいいわよ。あの小鬼が言っていたけど、疲労回復効果があるって実感できるから」
「は、はい……あれ、小鬼は?」
「ここですよ姫様ー」
首を巡らせると、部屋の隅で小さな手をぱたぱたと振っていた。
「何してんだ?」
「充電でーす! ここにコンセントがあるので!」
「ああ……」
「ところで、姫様。浮いたお金でパワーアップ、いかがです?」
「ん? なんて?」
「パワーアップです!」
またゲームみたいなことを言い出した、と戸惑っていると、奈緒が小鬼に歩み寄る。むんずと掴んで、引っ張った。背中から伸びたコードが尻尾のようだ。
「ちゃんと説明しなさい」
「相変わらずの暴力! えーっとですね……この先のことを考えて、パワーアップをオススメします。具体的には、奈緒さんの身体能力の向上か、小鬼の電池長持ちですね。どちらも硬貨一枚ですから、お買い得ですよ!」
「……身体能力の向上ってのは……」
「強くなります! 蟲との戦いも楽になりますね」
単純にステータスアップってことか。奈緒の人間離れした動きを思い出し、ひとり納得する。強くなれば楽になる。当然、やらない理由はない。もしまた、あの百体分の巨大蟲が出た時のことを考えれば、奈緒を強くすることが最優先だろう。
だが、奈緒は何か考え込んでいた。断る理由もないだろう。裕史が訝るように眉を少し寄せる。
少しの間の後、奈緒は小鬼に訊ねた。
「……刀のパワーアップはあるの?」
「ありますよー」
「なら、鞘は?」
「もちろんあります!」
「え……? 奈緒さん、どういう意味ですか?」
「これ、見て」
奈緒が刀を差し出した。何だろうと、目を凝らす。よく見ると、鞘にひびが入っていた。
「最初に試したのよ。鞘も武器になるのか」
「なんでわざわざ?」
「あなたに持たせるためよ」
「……オレに?」
「ヒロフミは身を守るもの持ってなかったでしょう。だから、私が戦ってる間、鞘でもないよりはマシかと思って……。けど、この鞘驚くほど脆かったのよ。簡単に壊れそうだったから、中途半端に武器になるもの持たせるのは逆に危険だと判断したの」
裕史は目を大きく見開いた。訳がわからなかったあの状況で、そこまで考えてくれていたのか。と、同時に申し訳なさが心の内に押し寄せる。頼りない男だと思われただろう。事実ではあるが、やはり落ち込むものがある。
「あ、でも今は盾がありますし……」
「そうね。でもそれは小さいし、群れで襲われたら対処できないでしょう? ないよりは、あった方がいいと思うわ。刀も落としたり折れたりする可能性もあるだろうし……その時鞘が使えるのと使えないのとでは、だいぶ違うんじゃないかしら」
「確かに……」
「刀のパワーアップは、鞘は別枠になりますがよろしいでしょうか? 鞘のみで硬貨二枚でーす!」
「え、一枚じゃないのか!?」
「二枚でーす! 刀身の強化であれば一枚ですよ!」
一体なぜ。鞘の有用性は理解したが、刀身は一枚で鞘が二枚なのは不可思議だ。刀身に二枚ならまだわかるのだが。
「鞘をお願い」
「奈緒さん本気ですか!?」
「ええ。私のパワーアップは今は必要ないわ。刀身も次の機会でいい。あとは……電池長持ちだったかしら?」
「はい! この家に入るまでの電池残量は60%、入ってから充電するまでの間に25%になってまーす!」
「おかしくね!?」
「小鬼は電池もぐもぐなんですー!」
「ええ……買い物もわりと食うってことか?」
「そのとーり!」
「ふざけてるわね」
これには、奈緒も不快感を顔全体で示してしていた。いくら何でも、この減り方は劣化品だろう。
「しょうがないわ……じゃあ、電池長持ちね。ヒロフミ、あなたがスマホ弄らずにいたのは正解だったわね」
「そうみたいですね……」
「まいどー! では、全部で三枚ですね!」
五枚あった硬貨が二枚になる。ちまちま貯めてきたものが、こうもあっさり無くなる。それも、買ったものが目に見えるものではないのが、余計に喪失感を覚えてしまう。無駄な買い物をしたわけではない。必要なものだ。そう言い聞かせたが、また蟲をちまちま狩っていくのかと思うと、やはり気が重かった。
「鞘はどうですか?」
「ひびは直ったわ。強度は試してみないとわからないけど」
「そうですか……」
「ヒロフミ、早く休んだ方がいいわ。私も何か食べたら寝るから。あなたもきちんと身体を休めなさい」
「そうします……」
とりあえず、風呂に入ろう――裕史は眠い目を擦りながら脱衣所に向かった。
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