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目を開け上体を起こすと、見慣れない部屋にいた。端から端まで目を走らせ、理解するのに数秒。やはり夢ではなかったかと、裕史は落胆した。
体を伸ばし、ベッドから立ち上がる。カーテンを開けると、川が流れているだけの殺風景な世界が広がっていた。
どのくらい眠っていただろうか――香ばしい匂いに誘われるように、階段を下りてリビングに向かうと、コーヒーを飲んでいる奈緒と目が合った。
「おはよう、ヒロフミ。よく眠れた?」
「多分……よく眠れたと思います」
「そう。コーヒー飲む?」
「はい……いただきます」
奈緒が淹れてくれたコーヒーは、ほろりと苦く、じんわりと甘かった。苦いだけのイメージがあって、普段あまり飲まないのだが、これは美味しいと思った。ミルクと砂糖の分量なのか、コーヒーそのものなのか、わからないけれど。とにかくほっとする。
「さて、と……」
「奈緒さん?」
「あと残り三時間ほどよ」
「え? あ、本当だ……」
デジタル時計を見上げる。ここを利用できるのは後約三時間――また続けて利用するには十枚必要だったか。
「私はちょっと外に出てくるわ」
「え……、え?」
「蟲狩ってくるから、ヒロフミはここにいて」
「は、え、本気で……すよね、奈緒さんはいつも」
「ええ。ここにいればヒロフミは安全だもの。三時間経つ前には戻るわ。ついでに鞘の強度も確認してくるから」
「はあ……」
裕史は不安げに頷いた。いくら安全でも、置いていかれるのは――
「ちょっと、時計の役割くらいはしてくれるんでしょうね?」
奈緒が小鬼を掴んでいる。プラプラ、振られながら小鬼は若干嫌そうに目を細めた。
「まあ、時間経過を教えるくらいならいいですけどー……奈緒さんの暴力にはわたくし……物申したい!」
「ふーん」
「キイテナイ! キクキモナイ!」
「ないわよ」
時間が惜しいのか、奈緒は小鬼を掴んだまま足早に玄関へと向かう。もう行くのかと、裕史の胸に不安感が渦巻いた。
奈緒は黒い靴を履いて、ポニーテールを凛と揺らし、ドアを開ける。
「それじゃ、行ってくるわ」
「あ…………はい……いってらっしゃい……気をつけてください」
「ええ」
パタン――ドアが閉まる。裕史はドアを暫く見つめ、リビングへと戻った。少し冷めたコーヒーを飲んで、落ち着こうと深呼吸する。
しんと静かな部屋。仄暗い中に取り残されたような気がして、窓辺に向かって歩む。奈緒の姿は見えない。死ぬことがない以上、ここには必ず戻るだろう。けれど、この独りの空間――裕史は意味もなく部屋を見渡した。自分でも、段々と恐怖に支配されていくのを感じ取っていた。安心安全だと、わかっているのに。それでも、鼓動はスピードを増していった。
ぬるり――心の内が得体の知れないものに侵されていく。
違う。ここは安全だ。だから安心していい。あと約三時間、ここにいればいい。奈緒の帰りを待っていればいい。それだけでいいのだ。ただ、待つだけ。
カサッ――物音が聞こえた。外からだ。恐る恐る、目を向ける。
ぎょろ――目が合った。思わず飛び退いて、テーブルに足を取られひっくり返る。
どくんどくんと、心臓がうるさい。血が熱くなる。
蟲が蛙のように窓に貼り付いた。生やした腕で、探るように。
入っては来ない、入っては来ない――浅い呼吸を繰り返しながら、裕史は何度も自分に言い聞かせる。小鬼が言っていただろう。結界が張ってあるのだと。
大丈夫――しかし、気づいてしまった。あるはずのモノがないと。
鍵だ。本来窓についているはずの鍵がない。つまり、窓を開ければ――――
この瞬間の記憶はなかった。逃げるように走り出していた。靴を持って、家を跳び出していた。
馬鹿なことをしていると、頭の隅で思う。それでも足は止まらなかった。ここにはいたくない。いられない。恐怖が背後からやってくる。
奈緒はどこだろうか――まだ近くにいるはずだ。辺りは何もない見通しの良さ。見つけられないわけがない。けれど、その姿はどこにもなかった。
なんて情けないのだろう。奈緒がいないだけで、こうも恐怖に飲まれてしまうなんて。精神的に支えられていた。寄り掛かっていた。情けない――
「あ……!」
小石を踏んで、派手に転んだ。
「ハァッ、ハァ……くそ、馬鹿かよ……」
涙が浮かんで、ぐしぐしと拭った。自分のあまりの愚かさに辟易する。自ら危険に飛び込んでしまった。奈緒の命にも関わるというのに。
戻ろう――立ち上がろうとした裕史の視界が僅かに翳った気がして、見上げる。
蟲――巨大蟲。認識したと同時に、死んだと思った。盾は置いてきてしまった。あっても、きっとあまり役には立たなかっただろう。
大きなぎょろ目が、大きな口に変わる。
喰われる――その瞬間、浮かんだのは奈緒の顔だった。彼女も死んでしまう。そう思ったら、体は自然と動いていた。死ねない。こんな形で死ねない。必死に躱して、不格好に逃げ出した。逃げ切れるとは思わない。それでも、せめて抗わないといけないと、そう思った。
脚を掴まれた。また転んで、それでも前に進もうと這う。
「すみません……奈緒さん……」
後悔でいっぱいの中、裕史は目を閉じる。
ビュン――風を切る音が聞こえた。ハッとして目を開ける。何度も聞いた音だった。
巨大蟲の上に人影が見えた。人影は、刀を勢いよく突き刺す。
「奈緒――」
えっ、と。裕史は言葉を呑み込んだ。奈緒じゃない。巨大蟲の上から裕史を見下ろしていたのは、銀髪の男だった。恐らく高校生だろう。銀色に染めた髪、左耳には黒いハートのピアス。ひと目で女子に人気だとわかる顔立ちのイケメンだった。
他にも人間がいたのか――裕史があんぐりと口を開けていると、巨大蟲がもぞもぞと動き出した。
「織歌!」
「はい!」
男が叫ぶと、今度は女の子が裕史の前に出た。身を隠せるほど大きな盾を構えている。
「蟲から見えないように体を隠して!」
「え、あ、はい……!」
言われるまま、巨大蟲の視界に入らないよう盾に隠れる。
女の子も高校生のようだった。ブレザーに身を包み、肩下までの髪からふわりと、花のような甘い匂いが漂う。
「大丈夫?」
女の子が問う。可愛らしい感じの子だった。
「えっと……君は……?」
「私は鏡見織歌。彼は結崎桜くん」
「人間……だよね?」
「そうだよ。私たちも他に人間いるの初めて知って、ちょっと驚いてる」
びっくり、と織歌は笑った。その笑顔に安堵して、裕史の体から余計な力が抜ける。
「織歌、もういいぞ」
「うん。お疲れ様、桜くん」
覗くと、巨大蟲は消えていた。もう倒してしまったのか――驚く裕史とは違い、二人は慣れているのか、あの硬貨を手に話をしていた。ぱちっ、織歌と目が合う。
「はい。これ、あなたの靴だよね?」
織歌が転がっていた裕史の靴を拾ってくれた。まだ状況が把握できずにいる裕史は、ただ頷いてそれを受け取る。足の裏がじんじんと痛い。裕史は改めて二人を見る。並んでいると、ごく普通の高校生カップルのようだ。
「あの……助けてくれてありがとう……。もしかして、ふたりは……ふたりも騎士と姫って関係……?」
「そうだよ。あれ、それ知ってるってことは……」
「何でお前一人なんだよ」
「うっ……それは……その……」
あまりに恥ずかしい理由だ。どう説明したものか。
「おい!」
突然、桜の顔色が変わった。裕史は振り返る。
蟲の口が眼前に迫っていた。桜が抜刀したが、間に合わない――ドゴッ。頭上から何かが落ちてきた。それは見覚えのある盾で、蟲を潰していた。
「ヒロフミ!」
明らかに怒り顔の奈緒が走ってくる。
ああ――これは怒られる。当然だ。それなのに、なぜか笑みが零れた。奈緒の顔を見て安心してしまった。彼女を危険に晒したというのに。
「ヒロフミ……! あなた……!」
「すみませんでした!!」
裕史は土下座した。言い訳のしようもない。怖かったんです、なんて。
「あなたねぇ……」
「……ナオ……?」
裕史は顔を上げた。それは、初めて見る顔だった。ひどく狼狽したような、奈緒の表情。振り返ると、桜も戸惑ったような顔をしていた。
「サクラ……なんで……」
まさか、知り合い――?
重い空気に包まれた。
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