太陽のナイフ

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 季節が変わる前に終わらせてしまおうと、悟は予備校の参考書を鋏で細かく切りはじめた。鋏では二、三ページの厚さまでしか切れない。丹念に時間をかけて参考書を切り刻んでいった。  すべてを切り終えたころには窓から夕陽がさしこんで部屋が輝いていた。部屋中に散った紙片がオレンジ色に燃えているように見えた。  使いすぎた鋏の刃はいつの間にか欠けている。硬かったはずの金属がぺらぺらの紙程度のものに負けたのだ。  悟は鋏を振りかぶると、切れ残った参考書の背に突き刺した。ページを切り取られ、鋏を突き立てられ、何かを象徴するモニュメントにも見える。俺の敗北の記念碑にとっておいてやろうか。悟は頬を歪めて笑った。  小さな頃から勉強などしたことがなかった。一度聞けば覚えられることを、どうして皆はできないのか分からなかった。テストは百点が当たり前だった。  悟くんはすごいねと褒められるたび、悟は自慢の息子よと褒められるたび、悟の自尊心は肥大していった。周囲の人間は皆自分より劣っている。自分ほど賢い人間はいない。  けれど同時に悟は孤独だった。自分が感じた世界と周囲の人間が感じる世界には大きな隔たりがあることに気づいた。  悟が修学旅行の思い出を語りたいとき、それが旅行の翌年であれば、皆はその時のことをほとんど忘れているのだ。バスの席順、お土産に支払った金額、あのかわいかったバスガイドの名前すら忘れてしまう。それらを忘れているのに、いかにも覚えているように振る舞う彼らを、悟は理解できなかった。  だが高熱が、悟の世界を一変させた。  悟はあらゆることを忘れてしまった。頭の中は空っぽで熱が出る前のことを覚えていなかった。自分の名前も、自分の顔も。  けれど体はいくばくかのことを覚えているようで、箸を使えるし顔も洗えた。母は生きているだけで十分だと泣いた。その言葉はなぜか悟をいらつかせた。  毎日、母が付きっきりで悟に色々なことを教えていった。半年後には一人で外出できるようになった。一年後には年齢相応の振るまいができるようになった。  母に乞われて大学へいくため予備校に通うようになった。授業はすべて意味不明な言葉の羅列でしかなく、悟はその言葉を理解できないまま覚えていった。  試験はいつも零点だった。答えるべき知識は蓄えているのに、問題の文章を読んでも何を問われているのか理解できなかった。  母はそんな悟に、やればできる子なんだから、きっと以前のような成績をとれるからと励ました。悟はまた、いらつきを感じた。 「悟!」  予備校の講師から声をかけられた。その男の顔を見たとき、悟の頭の中の霧が晴れた。すべてを鮮明に思い出した。一気に遠くまで見通した一番奥にその男はいた。 「先生のこと覚えているか?」  男は中学時代の担任教師だった。 「お前、ずいぶん変わったなあ。人間が丸くなったみたいだ」  この教師は悟の自尊心を砕こうと、くだらない口出しを続けた男だ。お前は変わらないと、いつかしっぺ返しを受けるぞ。自信過剰で立ち枯れた木になるぞ。それを口癖のように繰り返した。 「記憶喪失の学生ってお前だったんだなあ。けれど人生には忘れた方がいいことがいっぱいあるからな」  慰めているつもりなのか冗談を言っているのか分からないが、無性に腹が立った。 「忘れたから分かるだろ、人の心が」  教師はまだ何か喋っていたが悟は背中を向けて走り去った。気持ちが分からなかったのはお前じゃないか。人の心が分かるふりをして、俺の心などまったく分からなかったのはお前じゃないか。  母も同じだった。彼女が求めていたのは成績の良い出来た息子。すべてを忘れた男なんか見る必要すら感じない。昔を思い出さなければ価値などない。  悟は走って走って家に飛び込んだ。玄関も廊下も階段も全部思い出した。そして全部忘れたいと思った。  自分の部屋に飛び込み鞄を逆さにして強く振り回し、参考書やノートをばらまいた。  季節が変わる前に終わらせてしまおうと思った。参考書をノートを卒業しそこねた高校の制服を自分の記憶を、切り刻んでしまおうと思った。  鋏は参考書を刻んだだけで使い物にならなくなった。膨大な記録の前に刃がたたなかったのだ。  無様に残った本の背表紙に、欠けた鋏を突き立て、悟は立ち上がり吠えた。人とは思えない咆哮。自虐を、過去を、人間を、記録した記憶のすべてを威嚇するように。  西日はだんだん弱く夜に埋め尽くされようとしていた。悟は息をきらして窓枠にもたれかかった。遠く水平線が見える。悟にはたどりつくことが出来ない恩情の彼方。  寸刻、海の上ぎりぎりに浮いた夕陽がまっすぐに悟の心臓目掛けて延びてきた。ぎらりと光る太陽のナイフが刺さって悟はきつく目を閉じた。そうしなければ心の底まで焼き尽くされていただろう。  目を開いた時にはすでに陽は落ちて窓から薄闇が部屋に忍び入っていた。  悟は鋏を引き抜くと元の通りにしまいこんだ。なにごともなかった。なにごともなかったんだ。  ただ、太陽のナイフが俺を切り刻んだ、それだけなんだ。  それだけなんだ。
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