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凛はあの日のことを今でも忘れたことはなかった。
忘れがたい痛みと苦しみ
会えない孤独と産まれた堕ちたことを呪うほどの孤独と絶望
まだうら若き少女だった凛は、二十歳を過ぎる頃には、妖艶な悪女や、壮絶な人生を生き抜く遊女を演じられるほどになっていた。
妊娠がわかったとき
凛は少しだけ夢を見た
宏光が幸せそうに自分と我が子を見つめる姿を
それがどんなに甘かったかをすぐに思い知った。
貴之があんな目で自分を見るなんて
考えもしなかった。
彼はあっさり凛に告げた。
「凛、お前はよくやった。これであの男の一生をお前は支配出来るようになった。いや、大した女優だ」
「じゃあ、私はこれで宏光さんと…」
「凛。これだけは言っておく。お前が女優になるのも、あの男がいずれ浅井を継ぐのも我々にとっては既定路線だった。
でも、我々が欲しているのは重い鎖であってその子供ではない。この子は産まれてはならぬ子なのだ。
お前が愛して病まない男と出逢い、恋に落ち、子を宿した絶頂にある今、女優として更なる飛躍を遂げるためにはそれに相応しい悲劇も必然なのだ」
凛は嫌なくらいに、この男が残酷で冷徹かを思い知った。
まさか、自分の養父がこれほどまでの人間だったなんて知る由もなかった。
暗い地下牢に連れていかれて、外部との人間関係を断たれた中で、凛は僅かな食事と水分を与えられ生かされた。
自らの決断で我が子を堕ろすことを決断するまで、彼はそこに凛を幽閉した。
毎日届けれる中絶同意書は凛の涙の跡と、彼女が自身の喉をかきむしったために爪についた血の跡やビリビリに割かれて何枚もダメになった。
このまま命を絶とうか、そう思うくらいには追い詰められたが、それを叶える術がなかった。
まるで処刑を待つような罪人の気持ちで溢れ、愛する人の愛しき我が子を抱けないことがこれほどまでに自分を苦悩させることを呪うようになった。
凛はもうこのまま、この子と死んでしまいたいと思うほどに泣き果て、悩み抜いたあげく
20週で自分の現実を受け入れた。
それでも、手術の目前。凛は怨みとばかりに意思相手に暴れ回った。
狂ったように医師や看護師に噛みつき、引っ掻き倒した。
一人の医師が彼女の投げつけた器具で怪我をしたが、そんなことはお構いなしだった。
その後、散々暴れた凛を優しく慰めるように抱き抱えると、貴之はやつれ切った娘を抱きしめこう告げた。
「凛よ。私はこれほどお前を愛しく感じたことはない。今夜、我が寵愛の刻印を受けて、お前はいずれ日本を虜に出来る女優に成り上がればいい」
凛はその日知った。
何故血の繋がりのない娘を、大事に大事に育てあげ、初々しい初恋を経験させ、愛する喜びまで与えようとしたのか。
有り余る幸せを一気に崩して、自分に隷属させることが目的だったと。
彼は凛を愛撫しながら、その耳元で囁き続けた。
彼を恨め、憎め、愛し倒せと。
「あの男の人生を全て手に入れたければ、まずは日本を虜にする必要がある。この世の中で一番手に入れ難いのは、他でもなく愛する人の心だ。それを買うには時間をかけてじっくり相手を支配し服従させ、時には喜びを与えられるそんな魅力が必要だ。
今のままだと、まだあの男はせいぜい凛の身体に執着する程度で、心まで愛されはしない。
残念ながら、凛。
彼はまだ心底をお前を愛してなどいないのだよ
ただ抱くことに拘りを持ったにすぎない。
彼はまだ学生だ、将来有望な学生だにすぎない。我が子のことより自分の将来に関心があり、未来を語る上でこの子を必要とはしていない。
お前だって、この子を産んでしまえば、女優は勿論、光樺女学院からも追放されてしまう。
それでいいのか?」
貴之はちょっと膨らみ始めた下腹部を撫でながら問いかけた。
凛はその間、自分の現実と愛しい我が子さえも憎んでしまうほどの絶望感をその身に覚えていた。
愛していたはずの宏光が、胎内に宿った我が子がまるで自分の未来や将来を奪う、強烈な悪魔のような錯覚に襲われた。
それは彼の洗脳に過ぎないはずなのに…
なんの連絡もよこさない
事実を知らずに生きる宏光を憎むことで
凛は現実を受け入れてしまった。
胎内から取り除かれた我が子への愛しさは、まるで彼への愛の消失と引き換えに、凛の心と身体に重く暗い影を遺していった。
それが女優、神尾凛の類稀なる容貌と妖気を放つ美しさとして日本で愛されるようになるまで、そう時間はかからなかった。
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