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宏光が詩子に何も返せずにいると、彼女はコーヒーを一口すすって、また話始めた。
「碧音、ここ数年で随分自分の境遇を理解し始めてるように思う。それに、あなただってもしここで息子が平凡に人生を送ったとして、自分のようなビジネスマン、いやエリートサラリーマンにすらなれなかったとき、浅井が許すとでも思うの?」
宏光は首を横に振った。
「あなたも私も、まだまだ現実を受け入れ切れない部分はあるのかも。でもね、もし、初音が生きていたなら、間違いなく碧音を立派な子に育てようとするはず。だから、将来だけは真剣に考えてあげなきゃいけないと思う」
「はい。おっしゃる通りです」
宏光がぎゅっと瞳と唇を噛み締めて、決意を新たにしていると、詩子は涙声でこう続けた。
「あの子が不倫してたなんて、私は今でもそんなことは信じてはいない。いつも真面目で明るい初音が、あんな風に手紙を遺して逝ったのは、何か事情があったんだろうってそう今でも疑ってる」
「はい…俺も彼女が裏切ったなんて今でも信じてません」
「でしょ?でも、あの日から今日まで手探りであの子を育ててきて一つだけ希望が生まれた気がするの」
「えぇ」
「碧音はあなた達に似て、真面目でお利口さんだわ。きっとそれだけは間違いないの」
詩子はそう言うと、目元に涙を浮かべてはいたものの、にっこりと微笑んだ。
宏光はそんな彼女を前に返す言葉もなくて、少し温くなったコーヒーを喉に流し込んだ。
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