ワンちゃんネコちゃん

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「押すな……押すなよ……」 「わかった、押すね」 「いやまだ押さんといてよ!」 「『押すな』は『押して欲しい』って意味だろ」 「それはお笑いの世界の話やん……。オレはマジで押して欲しくないねん!」 「そんなこと言ったって、押さないと何も始まらないぞ」 「う……せやけど……。とりあえず水飲んで落ち着くわ」 「この10分で2リットル飲みきる気かよ」 何の変哲もない平日の午後。旧式の扇風機がぬるい空気をかき回す乱雑なワンルームで、俺はさっきから「ボタン」から「手」を付けたり離したりを繰り返している。その横で「相方」が、俺の動向によっていちいち百面相をしていた。俺がさっさとボタンを押さない理由は二つ。一つは俺も押すのがまだちょっと怖いから。もう一つは……こんな風にこいつと和気あいあいと取るに足りないやりとりをするのが楽しいからかな。 ……まさかこいつとこんな時間を送るようになるとはつゆほども思わなかった。初対面時は出逢ったことを後悔したくらいなのが懐かしい。そう、俺はこんな奴と知り合いたくはなかったんだ。 ――東京に来て三ヶ月が経とうとしていたとある水曜日、俺はやっと務めるアルバイト先が決まった。割と時間がかかったのはえり好みをしていたからだ。より良い条件の求人元を選ぶのに時間がかかった、それだけ。他に理由などない。まあ、他に8カ所ぐらい面接を受けて全部不採用を食らったけど、大した問題じゃない。過程より結果だ。実際勤務先はかなりいい条件の待遇だと思う。立地や雰囲気、給料、仕事内容など……そして一番欠かせない条件をクリアしていたので、今のところとても満足している。働いてみないと実態は完全に把握出来ないけれど、それでも幸先はいい方なのではないかと思っていた。 そんなことを考えながら、俺は勤務先のカフェ「Violet」の従業員通用口のドアを開けた。 すると待っていましたと言わんばかりに店長が足早にやって来て、にこやかに「ようこそ」と握手を求められた。こんな風に他人に温かな歓迎されたことが今までなかったので一瞬たじろいだが、厚意を無下にしてはいけないと努めて明るく手を握った。勤務1日目、始まる前からなかなかの滑り出しだ。 制服を渡され3階の更衣室で着替えたら1階のホールに来て欲しいと告げられたので、手早く支度をする。まずは他の従業員に挨拶をするそうだ。少しでも印象のいい笑顔で自己紹介が出来たらと、顔の筋肉を柔らかくするために少しもんでおいた。……正直不安だ。本当にこれで良かったのか。俺は「ここ」にいていいのか。ーー今更そんなことを考えても仕方ない。自分で決めたことだ。ここでうまくやっていけたらいいなとどきどきしながら階段を降りていった俺は……次の瞬間早々に後悔することになった。
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