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……なぜだ。一週間客としてここに通い詰めたり、ネットで評判を検索したりしてリサーチは入念にしたのに、と考えながら促されるままに自分の名前を言う。これから仕事仲間になるであろうオーディエンスは俺の言葉にざわめいたが、それは想定内である。なぜなら俺はかなり珍しい名字の持ち主だからだ。名を名乗るたびにある程度興味を持たれる……けれど、それから円滑なコミュニケーションが取れるかどうかというのは別問題だ。そんなことはさておき、場がさざめくことは想定外ではあったのだが、明らかに他の人より興味の持ち方が尋常ではない人が一人いた。瞳をきらきらとさせて、今にも俺に飛びつきそうな雰囲気で浅黒い肌の腕を上下に振っている。腕の動きに合わせて後ろで一つにまとめた金髪も上下に揺れていた。……ああ、嫌な予感がする。
「なぁなぁなぁなぁ! キミ、『ネコヤシキ・アキラ』っていうん?」
「はい……名乗ったとおりですが」
「オレもな、『ネコヤシキ・アキラ』っていうんよ! ネコヤシキはそのまま『猫屋敷』でアキラは明るいの『明』! キミは?」
「朗らかの……『朗』です」
俺は意気消沈していたが、同姓同名の人と出会ったことについて、全く感動していない訳ではなかった。日本に数十人しか持っていない名字だし、おまけに漢字は違えどファーストネームまで同じなんて、これはまるで……。
「運命やと思わへん?」
「……はい?」
「広ーい世界でこんな珍しい名字の同姓同名の子と出逢えるなんて奇跡やん! 運命やん!」
「……そ、そうですかね」
「いやー! 嬉しいな! こんな運命的な出逢いってあるんやなー! 猫屋敷くん、よろしく! 仲良くしよなー!」
「は、はあ……」
「猫屋敷先輩」は予想通りものすごい勢いで俺に詰め寄り、断りなく俺の手をつかんで上下にぶんぶんと振った。先ほど店長とかわしたそれと客観的に比べてこちらの方が厚意があるように思うが、それでも俺の心は段々と冷えていった。
「あの日」からこういういかにも「チャラい奴」を意識的に避けてきたのに、結局こんな風に出逢ってしまうのは、確かに運命かも知れない。運命を通り越して、呪いのようにも感じる。……さて、どうしたらいいんだろう。
「何だかもう仲良くなっているみたいだし、新入りの猫屋敷くんの教育係は先輩の猫屋敷くん、お願いね」
「はーい! お任せくださーい!」
「……」
店長と猫屋敷先輩はにこやかで他の従業員の人たちは口々に歓迎の言葉を述べながら拍手をしてくれて、場は和やかな雰囲気に包まれている。おそらく俺だけが暗い気持ちなのだろう。この温情を「即座に辞める」という形の仇で返すことはしたくないし、新しいバイト先探しもしたくない。であれば、ここで何とかやっていくしかない。
「……皆さん、よろしくお願いします……」
猫屋敷先輩の後について業務内容を教えてもらいながら給仕をしたり接客をしたりした。ここ「Violet」は、コーヒー専門のカフェだ。店長自ら海外にコーヒー豆を買い付けに行くそうで、その洗練された味覚センスには多くのファンがいるみたいだ。実際大通りから逸れた裏路地にあるという立地にかかわらず、店はどの時間でも多くの客で賑わっている。俺もこの店の出すコーヒーが気に入ったというのがここの求人に応募するきっかけの一つだった。
温かみのある木目調のテーブルや椅子にシンプルなモノトーンのソファ、それに感じのいいアンビエントなBGMなど、この空間を構成する要素はどれを取っても落ち着いていてしとやかだ。だからはっきり言って猫屋敷先輩みたいなド派手な金髪ロン毛のやたらテンションの高い男なんてここにはそぐわない、こんなところには務めていないだろうと思っていた。そもそもこんな目立つ人がいたら通っているうちに嫌でも気づくと思うし、ネットでも言及されていそうなものだが、何の因果か実際に勤務するまで存在に気がつかなかった。……やっぱり俺にはこじゃれたカフェなんて分不相応だったのかな。
そんな一見この場の雰囲気を乱しそうな猫屋敷先輩は、予想とは反して誰よりもこのカフェに馴染んでいた。パリッとした汚れ一つない白いシャツが色黒の肌に映えていたし、黄味が強い金髪はアンティークなランプの光に照らされてまろやかに光っていて綺麗だった。そして何よりお客さんにも従業員にも物腰柔らかで親切丁寧でまさに「理想の店員」という感じだった。先ほどの変なイントネーションの関西弁のような話し方も一切しない。きちんと自分の仕事をさばきつつ俺に必要事項を簡潔にわかりやすく教えてくれる様も見事だ。不覚にも「すごいなあ」と思ってしまった。数時間前の熱烈歓迎モードは一体何だったのか。この調子なら、何とかやっていけそうな気がする。少し安心した俺は余計なことを考えるのを辞めて、仕事に集中することにした。
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