1 やまとの前で

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1 やまとの前で

 寂れた街の端にある惣菜屋「やまと」の前を、僕はその夜偶然さまよっていた。近所の主婦から会社帰りのサラリーマンまでを客とする「やまと」は、夜の十時前という遅い時間でも明かりを灯している、働き者の店だった。そんな作りたての惣菜のにおいに、僕は卑しい動物のように、もしくは明かりに誘われる虫のように釣られていた。腹を空かせていても夜食を買う金なんてない僕が、野良犬のようにうろついているさまを見て、恐らく君は同情心より滑稽さを覚えたんだろう。一つ二つ年上の君はお姉さんの顔をして、「買いすぎちゃったから、食べて」と言ってホカホカのコロッケを僕に差し出したんだ。買いすぎたってなんだよ。そんなふうに思いながらも、育ち盛りで空腹な僕はまんまと餌付けされたってわけなんだ。  それが始まり。そして始まった時から、君は綺麗な人だった。惣菜屋のおじさんが、毎回コロッケやハムカツを一つおまけしてくれるくらい。並んで人通りのある道を歩けば、多くの人が振り返った。僕に人目を引く力なんてないから、それは君の功績だった。まるで美しい花が人の視線を集めるように、みんなが君に見とれるんだ。  そして君は、夜だけの人だった。なんの暗喩でもない、夜にしか見えない人。  陽が昇れば、君の姿は消えた。本当に霧のように消えてしまい、誰の目にも触れなくなる。そして世界は君を忘れてしまう。全ての人の記憶から抹消され、夜になると再び姿を現す。  僕は最初信じられなかったけど、一晩中きみと夜遊びをして朝になる頃、次第に消えていく様子を目の当たりにして、全ては嘘じゃないって知った。  そして君は、いつだって「やまと」の一見さんだった。みんな君の記憶を失ってしまい、昨晩の君を覚えているのはどうやら世界で僕だけみたいなんだ。
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