序章

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序章

 つまりあのつまらない日常が、僕の失われた時間だと仮定すると、今は活かされた時間とでも言うべきなのだろうか。  今にも氷が張りそうな川を見つめ。僕は公園のベンチに座る。口からは白い息。  僕はスマートフォンを起動する。すると急速になにかをチャージするような音を出す。  「なにそれ」  うしろから、夏美の姿。  「うわっ見られた。起動音変えておくんだった。」  「相変わらずのヲタクっこだね。君は。」  学生服がまだまだ似合う年齢である。  僕の隣にポニーテールの少し背の高い女の子が、水色のコートを纏って制服姿で登場する。  「どうしたのかな?」  「う・・うん。ちょっと、昔の事を思い出してた。」  「昔っていつ頃の事?」  「うーん。中学くらい。」  「じゃぁ、つい最近じゃん。」  「そうなんだけど。少し遠い記憶かな。」  「ふーん。変なの。ヲタクっこでも、過去振り返るんだ。」  「そりゃー、僕は、過去に後悔ばかり積み重ねてるから。忘れたいんだけど。」  「あ、そういう意味で言ったんじゃないんだ。ごめん。」  夏美は僕のガールフレンドだ。お互いの趣味がバスケットボールの試合の鑑賞だった事がきっかけで交際が始まる。高校生の交際のきっかけなんて、案外そんな程度のものだ。  でもそもそも僕は引きこもりがちのヲタクであることに対して、夏美はサバサバした運動系の部活の部員。それもバスケットボール部のキャプテンだ。なんでそんな女子が僕の彼女になってくれたのか。  「それは、君がバスケを愛しているから、である。」  夏美はある時僕に対して、その理由を説明した。男子バスケ部にだって、沢山バスケを愛している人達はいるだろうし、世の中ネットで探せばいくらでもバスケファンはいるだろうし。  「いやー、あいつらダメだね。バスケ全然興味無いもん。なんでバスケ部やってんだかわかんないやつばっかりだよ。卒業したら二度とボール触んないよ、多分。」  悲惨な現実だ。しかし彼女はその現実を直視しながら生きている。だからそうやって言い切る。そんな気丈な所がなんとなく僕が気に入っている夏美の性格だ。  「うち、来る?」  夏美は事あるごとに僕を自宅に誘う。大体この年齢の男女が、どっちかの家に行って、どうなるかなんて、たかが知れている。僕が好きなヲタク向けの漫画は、大体同じパターンだ。  「いかない。」  僕はそこでいつも踏みとどまる。  「なんでー?なんで来てくれないの?いつも。お母さんにだって紹介したいし。飼っている猫にも触ってもらいたいし。」  「別に。場所なんてどこでもいいだろう。このベンチの何がいけないんだよ。バスケットボールのビデオだったら、このスマホでいくらでも見られるし。別にどっちかがどっちかの家に行く必要なんて無いじゃないか。」  「ぷっ」  夏美はいたずらっぽくわらう。  「え?なんだよ。何がおかしいんだよ。」  「いくじなし。弱虫。」  顔をほころばせながら、夏美は僕をからかった。いやいやいけない。ここでこのからかいに乗って、冗談を言い合っているうちに、家に行く事になるんだ。  「えー。本気で来ないのー?」  夏美は落胆の色が隠せない。  「帰る。」  「ちえっ。」  夏美は僕と一緒に道を歩く。隣に川が流れている公園沿いの道である。夏美は長身で、170cmある僕とあまり身長が変わりない。だから横を振り向くと、普通に目と目が同じ高さで合うのだ。  「え?なんか顔についてる?」  「い・・いや。」  「ねーどうしたの?」  「なんでもない。」  気のせいかもしれないが、今日に限って夏美はいつもよりも、数段階可愛さがグレードアップしているように感じられた。  夏美は気が付くと、僕の手を握っている。  「え・・ちょっと。」  「だって。恋人同士なんだから、少しくらい、こういう事やらなきゃ。高校ももうすぐ終わりだよ。」  そうだ。僕等は来年の春に卒業を控えている。バスケットボールの推薦で既に大学の進学が決まっている夏美に対して、僕はこれからまさに受験ラッシュに突入する、その直前である。  「なんか、もっとこう、想い出づくりとか。」  夏美は笑顔で僕に問いかける。  「そうだな。」  「あ、めずらしい。ちゃんと反応した!」  僕が何をやっても、いつもこうやって物珍しそうに面白がる。僕はそんな夏美が、とても愛おしかった。  帰宅後、自宅では母親がご飯のしたく。父親がゴルフ雑誌を読みふけっていた。  「あれ。父さん今日早いんだね。」  「あー。俺、会社辞めてきた。」  「え?」  「20年勤めて来た会社だったが。業績が急激に悪くなってね。リストラ、整理解雇って立て続けに部下の首を、何十人もはねて。もうそんな仕事やりたくねーって、所長にキレたんだ。そしたらお前も辞めていいぞ、って一言。」  父親は現実逃避するかのように、ゴルフ雑誌に没頭している。  「そうだ。雪中ゴルフってのがあるんだよ。」  「雪中ゴルフ?」  「うん。北海道の田舎町がイベントで企画したんだ。文字通り雪の中でゴルフをするんだ。どうだ?今度の日曜日から3泊くらいしていかないか?家族みんなで。」  「いやいいよ。学校休まなきゃならないし。」  「いーじゃん。学校なんてよー。お父さんの傷心旅行に付き合ってくれよぉー」  「いやだよ。親父が勝手に会社クビになっただけだろう。だからってなんで俺の受験の邪魔されてなきゃならないんだよ。」  「かーさん。仕事に出るって。」  僕が生まれてこのかた、ずっと専業主婦だった母親が仕事に出ると言うのだ。  「お父さんの仕事が無くなっちゃったんだから。私が仕事するしかないでしょう?」  母親は、出来上がった夕ご飯をお盆に乗せて、居間に運んできた。  「どこで働くの?」  「サッカーの実業団の事務所。事務員募集してて。パートなんだけど、結構時給良いんだから。」  母親はあっけらかんとしながら、次々と配膳を済ませる。  「あれ?今日は食堂でご飯じゃないんだ。」  僕は違和感を示す。  「うん。俺ももうそういう堅苦しい家の中のルールを辞めにしようと思って。」  父親の勤務先は、家具を作る工場だった。食堂のテーブルはその工場で作った製品で、結婚当初に会社から結婚祝いに贈呈された品物だった。おそらく、そのテーブルを見たくない、のだと思う。  居間のテーブルはあっというまに料理で一杯になる。母と父、そしてそこに中学生の妹の姿が加わり、晩御飯となった。僕は父親の一大事を認識はしたものの、僕は僕で、受験という一大事をかかえている。だから、父親に対しては、  「がんばれ!親父!」  そうやって励ましの言葉をかける事にした。  「おう、がんばる!」  次の日から父親は仕事探しに奔走するようになる。母親も朝8時には出勤してしまう。  学校に行く途中、また夏美がひょっこりと姿を現す。  「よっ。ヲタク少年。」  「酷いあだ名だな。」  「眠れてる?ちゃんと。目の下、くまがすごいよ?」  「大丈夫だよ。」  「本当に大丈夫?心配だなー。」  そんなやりとりをしながら登校。  ***  帰宅後、今度は夏美が僕の家に来たいとごねる。いつものように受験勉強を引き合いに出して断りを入れる。推薦で進学が決まった高校三年生というのは、本当に暇を持て余している。  僕はインターネットラジオをつけて音楽を聴く。暫くすると眠りに落ちていた。  中学生時代に僕はバスケの試合で骨折をした事を夢の中で再生する。あれ以来運動が怖くなって性格もなんだか随分暗くなってしまって、バスケ部を辞めてヲタクになった。その話は夏美にはしていない。元バスケ部員だと知ったら、どういう反応になるだろうか。だから、僕のバスケットボールの試合の鑑賞が趣味なのは、そういう経緯なのだ。  あの時、僕があの河原のベンチで佇んでいた時に、声をかけてくれた女性グループがあった。彼女達はプロサッカーリーグの選手だった。その彼女達の雰囲気と、夏美の雰囲気はとても似ていた。僕はおそらく、それが過去の記憶とシンクロして、夏美に好意を持っている事に、自分で気が付いていた。別の言い方をすると、あの女性サッカー選手の事を、今でも想い出として大切に思っていて、つまりは「好き」なのだ。そのお姉さんを。その好きを上手にシンクロさせてくれた夏美には悪いけど、夏美はその人の代理でしかない。  心の中で夏美の笑顔が少し歪んだような気がした。その瞬間、僕は夢から覚める。びっしょりと汗をかいている。繰り返し繰り返し中学生時代に酷いタックルを受けてバスケの試合中に大けがをした瞬間を思い出す。  「もう二度とバスケはやらない。」  体育の授業でバスケットボールの練習がある時は、必ずその日は学校を休んだ。僕はもう、怖くてあのボールを握る事ができない。  ***  ある日、テレビを見ていると、日本代表の女子サッカーチームが活躍する映像が映し出されていた。2対1でリードしている。緊迫する後半35分の展開。日本は繰り返し繰り返し、波状攻撃で苦しめられていた。その中に、あのサッカー選手の姿があった。  「まだ、選手やめてなかったんだ。」  あのポニーテールの感じ、日に焼けた感じはまさに、本人そのものだった。  - 鈴井玲奈  そうだ、たしか別れ際に名刺をもらっていた。  僕はあわてて僕の部屋に駆けこむ。妹が晩御飯を支度しながら怪訝に僕の走る姿を目で追いかける。  僕は部屋で必死に学習机の中を探る。  あった。これだ。  - 鈴井玲奈  やっぱりそうだ。  僕は、少し色がくすんだ名刺を手に、一階の居間に戻ると、試合は終わっていた。2対1のまま勝利していた。  勝利のインタビューに、鈴井玲奈が登場している。目からは大粒の涙が流れている。苦しかった試合の事が語られている。練習の最中の怪我をひきずりながら90分間フルで出場したと語っていた。  ”やはりこの人、鈴井玲奈選手でした~!!”  そういう紹介のようなアナウンサーの言葉で、番組は締めくくられた。  僕は再び勉強部屋である自分の部屋に戻る。名刺を再び学習机の中にしまい込む。年頃の妹が隣の部屋でドライヤーをかける音が夜の室内に響き渡る。外で犬の鳴き声。救急車の走る音。遠くでかすかに聞こえる電車の走る音。僕の日常の中に、スポーツ選手による、かすかな光が差し込んでいる。それだけが事実だった。  ***  いつもの通学。やはりいつもと同じタイミングで夏美が現れる。  「どうもー」  僕は気が付くのか気が付いていないのかわからないような動きをした。  「あれ?」  「なに、いつも同じ時間に待ち伏せしてんの?いつも同じ時間に家出てるの?」  「重行君こそ、いつも同じ時間に家出てるんでしょ?だからこうやって毎日会えるんじゃない。」  結局お互いはお互いに当たり前の事をやっているだけだった。  「私達、性格真面目なんだよ。ちゃんと学校や両親から言われた事をちゃんとやって、通学すべき時間には家を出て、学校ではちゃんとご飯の時間にご飯食べて。あ、でも今日は練習あるから一緒には帰れないけどね。」  夏美は大学に進んでもバスケを続けるらしい。  「そういえば、昨日サッカー見た?女子の。」  「見たよ。」  「鈴井玲奈選手、かっこいいよねー。私もあーなりたい。憧れるなー。」  「え?」  急速に、夏美が鈴井玲奈にダブって見えた。同じポニーテール姿が互いにシンクロを繰り返す。僕は目をパチパチと繰り返す。  「鈴井玲奈選手、今度、うちの学校に来るんだよ。就職ガイダンスがあるんだけど、そこの保護者説明会のところで、特別スペシャルゲストで登場するんだって。体育館満杯になるらしいよ。バスケの顧問が言ってた。」  「へー。いつ?」  「来週ーかな。保護者宛にもうメールが行ってるはずって。」  「そうなんだ。」  僕の気持ちは高鳴った。
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