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優しい言葉をかけてくれますけど
その日は雨が降っていた。漆黒の夜に寄り添うような静かな雨だった。父と母を事故で喪った晩、覚えているのは、もう動かない両親を見たことと、窓の外の雨と。
「大丈夫かい、すみれ……」
あの人の声。
モダンな内装の居室に、秋月は主人である雪彦のために朝食を運んでいた。食事を取る部屋は別にちゃんとあるのだが、雪彦が「あんな広い部屋じゃ落ち着かない」と、自室で食べたがるためだった。
柔らかなパンや手作りのマーマレード、それからサラダや焼きたてのベーコン……手間なんてかけなくていいと言われたが、秋月は毎日短い時間でも丁寧さを心がけて朝食を作っていた。そうしないと働くのが好きな主人が、栄養面で偏った食事をして体を壊してしまうからだ。
「おはようございます、雪彦様」
ノックをして静かに秋月は扉を開けた。
「おはよう、秋月。悪いんだけど、珈琲をまず淹れてくれないかな……」
「かまいませんが、いかがされました?」
「いや、眠くてね……叔母さんからの電話が長くて」
「……そうですか」
気を抜くと声のトーンが下がってしまいそうだった。
見目も口調も若い雪彦だが、それなりに年齢を重ねている。けれど結婚のけの字も出ないことから、親族がやっきになって見合いをすすめているようだった。
きっとの昨日の夜更かしの電話も、叔母からの見合いの話だろう。雪彦の両親は随分前に、莫大な遺産を雪彦は継いでいた。
しかし若い雪彦はその遺産を適切に運用しており、その有能さをとりこみたいという親族が結婚にこぎつけようとしている。
ミルで挽いた豆を使い、秋月は珈琲を淹れる。
雪彦は、酸味よりコクや苦みを重視する。その好みに合わせたブレンドを出すと、雪彦は満足そうに頷いた。
「あいかわらず、おいしい……ホッとするよ」
「ありがとうございます、しかし……私からこんなことを言うのも何ですが、叔母様のお話をもう少しまともにうけとっては……」
「キミがそう言うのかい? 秋月」
「……差し出がましいことを言ってると分かってます」
秋月は自分の気持ちと裏腹の言葉を吐いてることを自覚しながら、きゅっと唇を噛んだ。
雪彦は秋月の手に触れる。優しく手で包み込む。
「僕は……すみれ一筋だから、絶対見合い話にのらない。のったって、きっとろくな事はない」
雪彦は秋月の名前を呼んだ。びくっとして、思わず感情が揺れ動いてしまう自分がいた。震える心をどうにかなだめつつ、澄ました声で秋月は言った。
「雪彦様の感情は、昔世話になった私の父母への配慮ですわ……兄のように考えて下さるのは嬉しいですが」
「また、そう言う……すみれは頑固だ、もっと素直になってほしいよ」
「私は雪彦様の未来を一番に考えてますよ」
「そういうことじゃないんだ……」
私は落ち着いた調子で彼の前に皿を置いた。
「朝食はこちらで全てです。また下げにまいりますので」
一礼して、秋月は雪彦の部屋から下がった。
雪彦の家に勤める使用人は何人もいるが、朝食を作るほど朝早い出勤をするのは秋月だけだ。特別にこの家に住み込みさせてもらっている。
秋月は深くため息をついた。仕事用の白手袋をつけた手で顔を覆った。
「今日も、頑張れた……」
雪彦が秋月を特別視していることは分かっていた。それが情愛に満ちたモノであることも理解していた。
だがそれを嬉しいと簡単にも受け止めるわけにいかない。
彼のことが大事だからこそ、自分の立場を重々認識してしまう。
「お願いですから、雪彦さん……私一筋なんて言わないで」
顔を真っ赤にして、秋月は祈るように呟く。秋月は雪彦のことが好きだった。もう何年も心の中に愛を隠していた。
しかし、雪彦の前で、使用人としての仮面は外さないようにしている。雪彦が自分に好意を持っている以上、自分の気持ちを隠さないといけない。
自分は落ちぶれた社長令嬢で、彼に拾われたからこそ、こうして生きていける。雪彦は大恩人なのだ。
……かつて、彼に遺産の運用の仕方を教え、独り立ちできるように支援したのは自分の両親だった。雪彦と秋月は、今では雇用するものされるものの関係だが。かつては本当の兄妹のように一緒に居た。
だが両親が事故死してから、運命は変ってしまったのだ。
金もない、コネもない、何もない自分は雪彦に相応しくない。そう考えると、秋月は雪彦の前で素直になれなかった。
だけど自分の中で、ふつふつと、雪彦への気持ちが昂ぶり煮詰まっていくから、嫌になってくる。諦めが悪い……。
とても、はずかしい……
秋月は自分の気持ちを振り払うように頭を横に振った。
悩みたくない、そう思いつつも。
今の彼女を悩みごとは、これだけではなかったのだ……
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