首筋の痕

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首筋の痕

 他の使用人と協力して洗濯や掃除を進めていると、雪彦が声をかけてきた。 「どうされましたか、雪彦様」 「ああ、秋月……ちょっと応接室を、用意してもらいたいんだ」  雪彦は困ったように眉を寄せていた。それだけで秋月は、雪彦の苦手な人物が来訪すると予想した。あの部屋は本当に特別なのだ。  かつて雪彦の父が使用していた部屋を改装した応接室は、この屋敷では親族を通す部屋になっていたのだ。  心臓がどくんどくんと鳴り響くのを感じながら、秋月は言った。 「お客様がいらっしゃるんですね……」 「そうだな、叔母さんなんだが、もう一時間以内にくるとか言いだしてて」 「……わかりました、すぐにご用意します」  雪彦の叔母がやってくる……その言葉だけで、ゾクゾクする自分がいた。薄ら寒い気分になる。  きっと、彼も……同行してくるだろう……予想や予測を通り越して、それは確信だった。 「っ……」 「秋月さん……どうしてボクを避けようとするの?」  雪彦の叔母を、応接室に案内して、キッチンで待機しようと踵を返そうとしたところで、声をかけられた。  振り向きたくはないが、そうもいかないだろう……  秋月は出来るだけ感情を悟られないよう、気を引き締めながら、声をかけてきた義之を見た。  雪彦の叔母の息子である義之はにやにやとこちらを見ている。高級仕立てのスーツを見事に着こなし、さらりと流している髪の毛も綺麗だが、顔から感じるどこか欠落した何かに、秋月は嫌悪をした。 雪彦の叔母も豪腕を振りかざし、いささか品のないものを感じさせる。何より人を見ないのだ、あいさつをしてもまるでいないように通り過ぎていく。自分にとって得のないものを人として扱ってないようだ。 「いえ、善之様……けしてそんなことは」  秋月は楚々とした態度でお辞儀をする。いくら相手に不快さを感じても、礼を失する態度をとるわけに行かなかった。落ちぶれたとはいえ、秋月の家でたたき込まれてきた教えを、ここで実践しないわけにいかない。  切り返しといわんばかりに笑みを少しだけ浮かべる。 「すぐに善之様のお茶もご用意しま……」  言葉が途中で切れた。善之に顎を掴まれ、ぐいっと持ち上げられる。 さすがの秋月も顔をしかめた。  く、苦しい…… 「そうやって殊勝な態度をとって……さすが華族出身の社長令嬢だっただけあるよな……秋月さん」  さんづけされているが、声には侮辱したい意志が強く宿っていた。善之・雪彦は親族間で年が近く、いわゆるライバル関係だった。だが善之は雪彦に一度だって買ったことがない。彼自身も優秀であったが、圧倒的な能力の差に、性格がゆがんでいってしまった。 「やめてください……私の生まれのことは」  善之は気色ばんだ秋月の顔を見て嬉しそうになった。昏い喜びだった。秋月は唇をぎゅっと引き結ぶ。 「母親の旧姓を名乗ってるから……母さんは気づいてないみたいだけど、雪彦を助けたあの家の人間と知ったら、どんな顔するかな……  あそこで潰せたら、結婚で懐柔なんて面倒なことにならなかったんだしな……  秋月はぐっと拳をにぎった。気持ちが悪い……善之に腿をなで回され、顎を掴まれ好色な目で見られて。けれど耐えないといけない。善之は秋月にダメージを与えられると思ったら喜んでくる。彼は雪彦の秋月に対する感情を知っていた。知っているからこそ、秋月を虐げてくる。  歪んでる…… 「はやく頭を縦に振れよ……ウチの家にくるって。そうしたらあんたの従兄弟、面倒見てもいいんだ」 「従兄弟のことまで把握してるんですか」  善之は下卑た笑みを浮かべた。 「お金が要るらしいな、事業をはじめたいんだって? ……でも銀行に相手にしてもらえないみたいだな」  秋月は何も答えなかった。いや、言えなかった。 「まあ、返答はいつでもいいけど……雪彦の迷惑とか、従兄弟の事とか、よく考えたほういいんじゃないの」 「お話は以上でしょうか、失礼します……」  秋月は泥濘を進むような体の重さを感じつつも、ぐっと善之を睨む。善之は秋月の視線の意図を感じ取ったのか露骨に、苛立たしげな顔をした。 「そのすました顔を、必ずくずしてやるよっ……」   善之は秋月の首筋を強く吸った。服の襟で見えるか見えないかの瀬戸際の位置だった。ぞっとして、血の気が引くのが分かる。秋月は善之の手が体から離れると、すぐにその場から逃げるように離れた  なんとなく背後から執拗な視線を感じたが、そんなことはどうでもよかった。 はやく、キスの痕を隠さなければいけない……すぐに着替えて、それから、それから……考えるだけで涙が出そうになった。惨めで、悲しくて、でも秋月はとにかく澄ました顔をしようとした。辛い顔をしたら、すぐにばれてしまう。雪彦に見せられない……心配をかけたくない……
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