唇を通じて混じる熱

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唇を通じて混じる熱

 動揺が止まらないまま、逃げてしまった。情けなさのあまり目を閉じる。暗がりの廊下の隅、壁にそって、ずるずると床に座り込んでしまった。  浅い息のまま、どうしてあんなことを口に出したのかと思う。混乱は消えないまま、ただ波立つ心に翻弄されていた。  私にとって、雪君は雪君のままだったんだ……  昔両親が居た頃、家によく来ていた雪彦に、隙があれば秋月はよく声をかけていた。遊んでと手を引っ張っていたものだ。彼は勉強や相談のために自分の家へ来たのに、とても優しくて、彼とずっと一緒に居たいと秋月はよく願っていた。 「雪君が、家族になればいいのに……」 「それはすごく良い考えだね……僕もすみれと家族になりたいな」 「養子だったらなれるよ!」 「養子かー、養子よりは、キミと……」 「へっ……」 「なんてね……驚かせてごめんね……でも、僕はキミが大好きなんだ」 「そっか……私も、雪君が大好きだよ! 一緒だね」  家族を失った彼の安住の地に、自分の家がなっている。秋月はそのことがとても嬉しかった。彼の好意には薄々気づいていて……その気持ちにどう応えればいいのかわからず、びっくりしてるフリをしていた。  その気持ちに早く応えていたら、運命は変っていたのだろうか……IFのことを考えてもしょうがないというのに、秋月は迷ってしまうこともあった。 「もう、今更……遅いのに……」  秋月は胸元をぎゅっと掴んで、絞り出すような声で呟いた。 そう、すでに時は遅しだ……自分の立場で好きと言って、九川の周囲は許すことはないだろう。自分より、雪彦の立場が苦しくなったらと思うと、体が震えそうになる。 「何が遅いんだ……すみれ」  ビクリと肩が震えた。聞きなじみのある優しい声に胸がつまされながら、声の主である雪彦を立ち上がって見る。 「申し訳ありません……急に変なことを言ってしまって……すぐに業務へ戻ります」 「いや……業務なんていい、それよりも気になることはあるんだ」  秋月は唇を固く引き結ぶ。 「すみれ、キミは何を考えているんだい……本当は僕のお見合いがイヤなんじゃ」 「そんなことありません……私は雪彦様の未来を」  絞り出すような声で、いつもの体裁を取り繕うとする。我ながら、隠しきれるものではないと分かっている。けれど自分の感情に対し素直になるには、まだ壁は崩壊しきってなかった。  雪彦は真剣な顔でこちらを見ている。自分の言葉の裏にある感情に向き合おうとしている。  やめて……と秋月は言いそうになった。そんなことをしたら、自分は堪えきれなくなる……感情の震えを抑え込もうとして秋月は動けなくなった。そんな秋月を、雪彦は優しく抱きしめる。腕の中に包まれていると強く認識した時、秋月の口から堪えきれない感情がこぼれ出た。 「やめて……雪君。私たちは、もうあの頃の私たちじゃないんだよ……私の存在があなたの迷惑になったら」  落ちぶれた社長令嬢だけじゃない、雪彦に敵対するモノにとっては、雪彦を助けた家の娘なのだ。 自分の存在があることで、余計な負担になりたくない……そう祈るような思いだった。  しかし雪彦は秋月の言葉に対して、さらにぎゅっと腕に力を込めた。 「僕にとって大事なのは僕のことじゃない……キミのことなんだ……キミが笑顔じゃなきゃ、意味がないんだ……」 「雪君……」 「僕の気持ちは変らない。僕は君は好きで、家族になりたいくらいで……九川のことなんて本当どうだっていい」 「それがどんな苦難になると分かってても……?」 「僕にとって大事なのは、君の気持ちだ……君が嫌なことをやるわけにいかない……」 「馬鹿……私なんかのために、馬鹿……」 「頑固なんだよ……君に負けないくらいに」  雪彦は秋月の額に自分の額を合わせた。それは昔、秋月が泣いたとき、雪彦が慰めるためにしてくれた仕草だった。  懐かしくも、変らない仕草……  自分の気持ちをとどめるために作った壁が、秋月の中で崩れる音がした。 「私も……あなたが好きなの……ずっとあの頃からっ……」  雪彦が秋月のためにと生きるなら、秋月だって、雪彦のために生きたい。心も体も……共にと願う。 「僕と一緒に生きてくれませんか、すみれ……」  雪彦の言葉に、秋月はこくりと頷いた。 そして晴れやかな顔で 「私と一緒に生きましょ、雪君……」と言った。  お互いに「自身への愛」を確認した二人の心の壁は、もうない。互いを求め合うように抱きしめ合う。体の温もりが、二人の中の熱を更に高ぶらせようとする。 どちらが先というのはなかった。 自然に互いの顔の距離が近づく。熱っぽい視線が絡み合い、やがて秋月は目を閉じた。 唇が重なり、唇を通じて熱が混じり合う……あまりに甘い瞬間で、夢のようだった。  二人の感情はもう押しとどまることはないだろう……廊下の暗がりが二人を守っていた。
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