1538人が本棚に入れています
本棚に追加
/174ページ
不安が充満している私の前で、一芭は再び息を軽く吐いた。
「お前は本当、ハプニングに見舞われる女だな」
「……うっさいな」
「エレベーターに閉じ込められたと思ったら、今日は受験当日に熱出してるし。もはや尊敬してきたわ、次は何すんの?」
ムカつく。より鋭さを増した視線で睨み見上げれば、整った顔を楽しそうに破顔させた男が居る。それなのに「景衣」と優しく名前を紡がれてしまうと、やっぱり、私は途端に弱い。
「…俺が今日、お前にしてやれることも言ってやれることも、殆ど無い」
分かっている。
だって、これは私が戦わなきゃいけないことだ。
それに、どんなに憎まれ口を叩いても、揶揄ってきても、この男が心配して様子を見に来てくれたことだって、熱の出た頭でもちゃんと分かっている。
だからこそ「そろそろ行く」と告げて離れようとすると、一芭は私を掴んでいた腕に力を込めてきた。
「……でも一個、約束しようか」
「…え?」
寝静まったように静かな早朝の、マンションの廊下。
寒さに晒された空間で、男は相変わらず口元を隠しがちだから、表情の全てはあまり確認出来ない。
『…おせーわ』
だけど。いつかの踊り場の時と同じように、顔や元々色素の薄い焦茶色の髪から覗く耳が、赤い気がする。
最初のコメントを投稿しよう!