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「…急に何なの」
「無い?」
男の言葉の意図が、よく分からない。次いで答えを急かす男に、意図せず眉が寄る。
「………無い、けど」
やけに真剣な声色と視線に圧倒されたのか、私の返事の声は少しだけ、掠れたものになった。紡ぎ終えるその瞬間まで、決して逸らされない視線を先に外したのは私の方だった。
「……あっそ」
「なんなの?」
「別に。じゃ、ババアはごゆっくり」
今しがた受け取った失礼なご挨拶の内容を咀嚼し、「おい待て」と文句を言ってやろうとした時には、既に私の隣から離れて外階段のドアの方へ向かう男を視界に捕らえた。その後ろ姿は、身長だって昔に比べたら当たり前に伸びたし、背中も随分と広く逞しいものになった。
斜めがけしている白地に赤のラインが入ったエナメルバッグは、うちの高校のバレー部のもの。
その姿がどんどん離れていくのを見た瞬間、刹那的に胸が強く痛んで、それを誤魔化すように持っていた単語帳をぎゅうと握りしめてしまう。
それでも私は、簡単にはその名前を呼ぶことが出来ない。手を伸ばすことも、出来ない。
男は勿論、一切振り返ることなくそのまま扉を開けて去って行って、コンクリートの外階段を颯爽と上っていく音が耳鳴りのように響いていた。
ポツンとその場に再び1人残された私に、軽快かつ無機質な機械音がエレベーターの到着を知らせた。
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