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「…景衣ちゃん?」
「……あ、すみません」
手が止まってしまっていたらしい。
菊さんからの呼びかけに意識を取り戻して、慌ててスポンジに泡をつけようとすると、直ぐ側に寄った菊さんが勢いよく水が流れていく蛇口の栓を閉めた。
「え、」
「景衣ちゃん、仕事してる場合?」
シンク前に立つ私の隣で、顔を覗き込んでくる彼女は先程までの朗らかな表情ではなく、真剣な眼差しをこちらに向けている。
「彼氏君と連絡取ってる?向こうは合宿に夢中な感じ?ちょっとくらい文句言ってやったって良いんだよ」
「……菊さん。私は例えば、一芭が"合宿さぼって帰省する"とか簡単に言ってくるような奴だったら、それはそれで、怒って、殴っちゃうかもしれません」
あの男は、何年もずっと打ち込んできたバレーを、簡単に手放したりはしない。そんなことは全然分かっていて、そのひたむきさを近くで見つめてられている時は、とても誇らしかった。
「今でもちゃんと大事にして頑張ってる。だから、天秤にかけられて重荷になる自分は絶対、嫌です。
なのに私は、"合宿がんばって"さえ、言ってあげられませんでした」
矛盾している。結局私は見栄を張り切れなくて、心が狭い。そういう自分を知られるのが、何よりも怖い。
「私が連絡したら、あの男はどんなに疲れていても律儀に返してきてしまうと思います」
その度に、罪悪感と嬉しさが混在する。だから、このゴールデンウィークは、なるべく連絡を控えたつもりだ。ラテアートの写真なんて、送れない。
「景衣ちゃん、矛盾しちゃ駄目?」
「……え?」
「いつも綺麗に一本筋を通して恋愛するなんて、無理じゃない?」
シンクに突っ込んだままの私の腕を掴んだ菊さんは、私と向かい合う姿勢をつくる。流水で冷たくなった手に、彼女の体温が少しずつ共有されて温かく何かを解されていく。
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