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「……本当に来てしまった、」
新幹線に乗り込んでしまえば、思いの外あっという間だった。お財布にはちょっと痛かったけど、こういう時のために社畜したのだと自分を言い聞かせて、改札を抜け、大きなターミナル駅を外から見上げる。
この街で一芭は過ごしているのだと思うと、不思議な気持ちになる。確か、この出口近くのロータリーから出ている市バスで20分くらいの筈。
目に映す全てが新鮮で、挙動不審に見渡しながらポケットのスマホを手にする。
電話、しよう。
ちゃんと自分が今から行うことを心でなぞって勇気を引っ張り出してから、履歴の上位に居る男の名前を勢いよく押した。
"……景衣?"
「…あ、」
1コールに近くコールが途切れて聞こえた男のいつもの声に鼓膜を揺らされてしまうと、それだけで瞼が熱を持つ。
「一芭、今、家に居る?」
"……え"
「え?」
"…あー、うん、まあ"
「な、何その返事」
レポートをしているんじゃ無かったのか。もしかして合宿も終わって休みだからってサボって何処かに出かけてるとか?勢いだけで来てしまったけど、この男が家に居なければ意味がない。どうしよう。
"なんで急にそんなこと聞くの、お前バイトは?"
「……早退した」
"…は?"
「早退して、」
「――――は?」
一芭に会いに来たのだと、伝え切る前だった。
電話越しじゃなくて、クリアに届いた声に顔をあげると、私と同じようにスマホを耳に当てて、驚きに目を見開く男が真正面に立っている。
「ひとは、」
カットソーに黒のテーパードパンツという、カジュアルな服装に身を包んだ男がぽかんと間抜けに口を開けてただ、私を凝視していた。
「……え、俺、疲れてる?」
額に手を当てて難しい顔で呟いた男は、どうやら私のことをお化けか何かかと疑っているのだろうか。
「ま、漫画」
「え?」
「持ってきた、読みたいかと思って。……だって貸すの、一芭のこと待ってたら、いつになるか分からない」
「……」
「ごめん、嫌な言い方して。
練習、すごくキツいんでしょ。床で寝落ちするくらい新しい生活がしんどい中で、多分無理していつも連絡くれてるって分かってる。一人暮らしも、部活も、頑張れって思ってる。なのに私、それでも今みたいに、嫌味混ぜたくなる時がある…っ」
菊さん、ごめんなさい。やっぱり可愛く"来ちゃった"とか私には恐らく一生無理です。
目の前で一芭の姿をちゃんと目に映したらそれだけで、弱々しく情け無い本音ばかり先行してしまう私は、どこまでもダメな奴だ。
伝え切ると同時に、堰を切ったように頬を滑り落ちていくものに気付いて顔を背けつつ、荷物を詰め込んだバッグを持つのと逆の手で拭い取ろうとした瞬間だった。
「…っ、わ、」
「……なんなのお前は」
正面で私の言葉を聞き終えた背の高い男が、突然引き寄せてぎゅうと両手で抱き締めてくるから、変な声が出た。不機嫌そうな声で呟くくせに、隙間を無くすように、全部受け止めるみたいな力の込め方をされて、息が詰まる。
一芭の香りに包まれた瞬間、絶対に他では得られない安心感に身を置いて、また涙が増えていく。昔に比べて随分広くなった背中に私も必死に腕を回した。
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