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こんな風に真上から見下ろされた経験は今までに無くて、鼓動があまりに煩い。過度な緊張のせいで息を上手く吐き出すのも困難になっている。射抜くような真剣な眼差しを向けられて、身体全身が金縛りにあったように動けない。
――やっぱり、違う。
マンションの至る所を駆け回ってたやんちゃな時の面影が全く無いわけじゃないけど、こんなにも大人びた表情も、抱き締めてくる腕の力強さも、私は知らなかった。
「…景衣、殴るなら今なんだけど」
「……え?」
「俺のこと止めるなら、今」
囁くような声を出しながら、するりと男の手が私のシャツの裾の方へと伸びた。脇腹辺りを服越しに撫でられて、身を僅かに捩る。
一芭の端的な問いかけが何を促しているのか、分からないほどもう子どもじゃない。
どうしよう、全然、怖い。嫌だとかそんな感情は1ミリも無いけどただ、漠然と怖さは抱えている。
『でも、恋人になった彼のことは、まだまだ、これから知っていく段階でしょ?』
――だけど、怖さの先を知るなら、私は絶対に一芭が良い。一芭以外は、嫌だ。
菊さんの言葉を一緒に思い出して、「大丈夫」と口角をちゃんと上げて伝えた時だった。
「……い"っ、た!?」
ばちん、なのか、ばこん、なのか。とにかく鈍い間抜けな音と共におでこに相当の痛みが突然走る。
思わず色気も何も無い声をあげて、寝そべったままおでこを押さえると、私を相変わらず見下ろす男の瞳が不機嫌そうに細まっている。
「…あんた今、何した」
「でこぴん」
「なんでよ」
「景衣ちゃんが震えた声で"大丈夫"とかほざくから」
「……震えてないし」
嘘だけど。全然、めちゃくちゃ緊張してたけど。
あっさりとさっきまでの雰囲気が崩れたことに安堵したのかなんなのか、じわじわと視界が急に歪む。
「…だから殴れって言ったろ」
それに気付いて瞳に溜まった涙を親指の腹で拭い取る一芭が「ごめん」と苦しげに謝罪を呟く。
もしかして、自分の所為だと思わせた?そんな顔をさせるために、此処に来たんじゃ無いのに。どうして私は、うまく出来ないの。
「……一芭、」
「ん?」
「私、嫌とかじゃ無い。ちょっとまだ、怖いけど、本当にそれだけ。上手く覚悟出来てないのに、会いに来たりしてごめん」
「……おい、俺が死にたくなるからやめて」
「な、なんで」
苦い表情で私を制する男は、目が合うと長い溜息を吐いて、それから私の腕を引っ張る。その引力で上体を起こした私の隣に座り直した一芭と、自ずと向かい合う体勢になった。
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