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「……彼女にベッドを譲ろうという気は無いの」
「ねーわ。何で家主が床で寝なきゃいけないんだよ。しかも俺は、寝る場所変わると寝付けない繊細なタイプだから」
「どの口が言うの。寝付きが悪いのは私だし、あんたは何処でも寝られるでしょ」
信じ難い思いで凝視していると、また「早くこっち」と促されて、ゆっくりと立ち上がる。
「最初から大人しく来てくれる?」
挑発的な男の発言にむっとした表情のまま、ベッドに自分の身体を寄せると急に腕を引っ張られて、向かい合う姿勢になる。
そのまま自分の胸元に私の顔を押し付けて、背中に腕を回してくる男の香りに包まれて身動きが取れない。
これは、まずい。想像以上に距離に隙間が無くて、私の心臓の音もリズムも、もれなく全て一芭にバレてしまう。
「……さっきのラテアートの写真」
「…うん?」
「撮った先輩って、男?」
抱き締められているから、一芭の顔は見えない。でも頭上で落とされた言葉をちゃんと耳に入れて数秒後、思わず頬が緩んだ。
「…同じ大学の一つ上の女の先輩。菊さんって言う人」
「……ふーん」
愛想の無い返事なのに、また抱き締める力は強くなって、じわりじわりと胸に温かさが流れ込む。
「一芭、馬鹿だなあ」
「やかましいわ、しみじみ言うな」
けらけらと思わず声を出して笑うと、小さく舌打ちした男が窒息しそうなくらい腕の力を込めて私を閉じ込める。
「…一芭は、合宿どうだったの」
「めっちゃ疲れた。1年はほぼ基礎練だし、外周コース山道で死ぬかと思った」
「……それでも続けようと思うのは、凄い。一芭は中学も高校も、引退ギリギリまで部活頑張って、ちゃんと勉強も頑張って、尊敬してた」
「…どうした急に」
「何かと向き合い続けられるのは、才能だよ。だから私も、大学は英語、4年間ちゃんと頑張りたい…、」
「留学したいって言ってたな」
ゆらゆらと、穏やかな波が頭の中でさざめいている。心地よい温度に身体を包まれて、急に瞼が重くなってきた。自分の口から出ている言葉も、把握しているようで何処か曖昧になっていく。
それでも一つ、気になることを思い出した。
「…何で、オーストラリア?」
「は?」
「留学先の候補出した時言ってた。魅力って、なに」
「それ言わないとだめなやつ?」
「だめなやつ」
「………時差が少ない」
譲らない私に観念したのか、少しの沈黙の後、一芭は声のボリュームを落として告げた。
「時差、?」
「アメリカとかヨーロッパに比べて、経度が同じで日本との時差少ないから。離れてても今みたいに連絡しやすい」
『オーストラリア一択だろ』
え。あれは、場所そのものの魅力じゃなくて、そういう意味で言っていたの。相変わらず、自分の顔は一芭の胸元に埋まっていて身動きが取れない。
顔が、見たいのに。
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