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「…一芭?」
どうしようかと暫く突っ立っていると、背後から馴染みのある声に名前を呼ばれる。
ランドセルを背負って目をまん丸にしてこちらを凝視する姿から、どうやら帰宅するところだったらしい。
「今日バレーの練習の日じゃないの??なんでまだ学校にいるの、何して…」
「あー、今から行く」
「……それ、どうしたの」
なんでこいつは、いつも面倒なタイミングでばかり俺のことを見つけてくるのか。振り返ってなんとか背中に隠したはずのそれは、呆気なく見つかってしまった。俺の靴の様子を、覗き込んできて尋ねた景衣の顔が一瞬で強張る。
「間違えて汚しただけ」
「……もしかして、大将にやられたの?」
こいつ、俺の苦し紛れの誤魔化しを聞く気はさらさら無いらしい。揺るがない強い眼差しを向けられて、ため息を漏らす。
「知らん。誰がここに置いたのかは見てないし。…まあでも、大将のことはみんなの前で恥かかせたしな」
「…なにそれ」
俺の言葉に、みるみる眉間に皺を寄せて口を噤む景衣の表情の険しさを見ていたら、なぜか少しだけ肩の力が抜けた。俺より怒りのオーラが凄くて、なんならちょっと笑えてしまう。
「何笑ってんの」
「…お前があほみたいな顔してるから」
「はあ?」
「良いから、お前は早く帰れ。友達待ってんぞ。俺もこのまま練習行くし。シューズは多分予備もある」
「一芭、」
「うちのババアに言うなよ」
「……どうして」
「なんでも。告げ口したら、お前がこの間、由紀子のプリン食べたこと言う」
「あれは、一芭が"俺のだから食えば"って出してきたんでしょ?!」
「間違えてたんだよ、あの後、俺が怒られて散々だわ」
いつものような言い合いをしながら、とにかくできる範囲の泥は流水で洗い流し、軽く靴を振って水気を取る。チラリと横目で確認すると、景衣はまだ立ち去る気配が無い。
「…プリンのこと、言っていいよ。私、由紀子ちゃんにちゃんと怒られてくるから。そしたら、このことも言って良いんでしょ」
…そうきたか。
俺の脅しをむしろ、自分の主張に使ってくるまっすぐな声が届く。
そうだ。こいつは、いつもぶれない。
曲がったことが出来ない。
掃除当番をサボる奴がいたら積極的に口うるさく怒るタイプだし、怒られると分かっていても何か間違えたら正直に言うし、なんなら、ゲンコツ貰いに行くくらいだし。
「ばーか、ババアはお前に甘いから、そんなん意味ねーよ」
――本当は直ぐに泣くくせに、こいつは「正しい」を間違えない。
「じゃあどうしたらいいの」
「なんもすんな。景衣、お願い」
「……」
結局情けなく願い出る形になった俺に、渋々顰めた顔のまま頷いた景衣は、待たせていたクラスメイト達の方へ駆け足で去っていく。
それを見届けた後、俺も濡れたままの靴を持って教室へと戻った。
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