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「……景衣が?」
「そー、お前が昨日、靴洗いにくる前な。学校から帰ってきて、そのまま管理人室まで来た」
運転席で、慣れた手つきでハンドルを扱う男は、バックミラー越しに俺と視線を合わせて微かに目を細める。後部座席に座る俺がその言葉を聞きながら隣を見やると、ぐーすかと、完全に気の緩んだ顔を晒して眠りこける女が居る。
『おー景衣、おかえり……どうした、怖い顔して』
『カンちゃん、ちょっと協力して欲しい』
『え、何』
『…明日の6時間目のクラブ活動中に私、ドッジで懲らしめたい奴が居る』
『おいおい、ドッジボールに物騒な意味合い込めないでくれる?急にどうした、なんかされたの』
『…いっつも、私のこと"イナゾー"って揶揄ってきて、そろそろムカつくの。新渡戸 稲造から来てるんだって。ホントくだらない』
『お前、新渡戸さんはお札にもなった凄い人なんだぞ。同じ苗字であることを誇らしく思いなさい』
『カンちゃん、ちゃんと聞いて。…でもそいつね、すごくデカいし私1人じゃ上手く出来ないかもしれない。だからカンちゃんに、助けに来てほしい』
『なんで俺?』
『だってカンちゃん、見た目怖いから』
『えー…俺、忙しいんだけど』
『お願い。御礼にレアなキラキラの折り紙全部あげるし、私が1番お気に入りのヘアゴムもあげるから』
『景衣ちゃん。ヘアゴムは俺、1番いらないのよ』
「で、景衣の作戦詳しく聞いたらまあ脆いんだわ。
顔面狙うってまず反則だし?そんなプライド高そうな相手、逆上するに決まってんじゃん。無謀すぎ」
ケラケラと笑うカンの言葉を聞きながら、今日、真っ直ぐに大将に向かってボールを投げた景衣を思い出す。
――いつもいつも、誰よりも馬鹿みたいに真面目で、融通が利かない。あんな反則の方法は全く景衣らしくない行動だったと記憶を辿っていると、それさえ見透かしたようにカンがまた笑い声をあげる。
「…あいつが名前を揶揄われたくらいで、そんな怒るの変だと思ってたんだよ。そしたらやっぱりお前関わってたな。一芭のことだと景衣は、無茶でアホなことするんだよなあ」
「……」
「俺、景衣と同い年だったら多分惚れてるわ」
「…は?」
「もしもの話なんだから、そんなヤキモチ妬かないで?」
「……ちゃんと前見て運転しろよ」
揶揄ってばかりの男の言葉に、苛立ちを隠さず低い声のまま指摘しても、全く効果は無い気がする。
「一芭。お前はちゃんと、この件は全部母ちゃんたちに言え」
「……なんで」
「問題を解決する方法を、1人で抱えること一択にするな。まあ、お子ちゃまの一芭君にはまだ難しい話だとは思うけど?」
「…君付け、きもい」
「お前、引きずり降ろすぞ」
「――でも、分かった」
カンの言ってることは、なんとなくだが、分かった。
俺が今回最善だと思って取った行動は、結果的に、最善じゃない。無惨な靴を見て正直苛立ったし、嬉しそうな父親の顔を思い浮かべれば、深い霧が本当は、いくら汚れを洗い流したって心に留まっていた。
『――だっさいこと、してんじゃないわよ!!』
俺の代わりに、勝手にその霧を晴らそうと躍起になる存在を知った。
…お前はなんで、急にそういう無謀なことをすんの。
無防備に大胆に、突進していった女を思い出して、視線をもう一度投げると、やっぱりこちらの気も知らず気持ちよさそうに眠りこけている。
やけに触り心地の良い柔らかい頬を軽くつねってやった。
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