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前編
彼女がいなくなった。
5年間一緒に暮らしている彼女がいなくなった。
というか、帰って来ない。
前兆というか、心当たりは…ある。
僕は、めんどくさがりでズボラ、どちらかというルーズな性格だ。部屋が散らかっていても大して気にならない。洗濯した服もたたまなくても平気だ。怒る事もほとんどない。
そして、夜型で、休みの前にダラダラと夜更かしをして、翌日昼まで寝ることがささやかな幸せだ。
いい大人の社会人としてどうかという事はさておき。
一方、彼女はというと、僕とは真逆で、潔癖で几帳面、とても真面目な性格で、喜怒哀楽が激しいタイプだ。
部屋に髪の毛が1本落ちていても気になるというような性格で、家にいる時は、いつも片手にコロコロを持っているような人だ。
朝型で、毎日早寝早起きの規則正しい生活をしていて、何もなければ、夜は10時に寝る。
そんな彼女と僕だから、日頃から喧嘩が絶えない。というか、日々、彼女が怒っている。
朝から、歯磨き粉の蓋が開いたままと怒り、トイレに入れば便座が下がってないと怒り、テレビのリモコンがいつもの場所に無いと怒り、玄関の靴が片付いて無いと怒り、嵐のように一通り怒って出勤して行く。
僕は、その嵐が過ぎるのを、息を潜めて待つ。
それから、ゆっくり準備をして出勤する。もう毎日の日課みたいなものだ。
彼女が怒ることがわかっていても、歯磨き粉の蓋も閉めれないし、トイレの便座も下げられない。テレビのリモコンも靴も、元に戻せない。
そんな僕も僕だと思うが、彼女も毎朝よく怒るもんだと脱帽する。
最近は、僕はわかってはいてもできないし、彼女が怒るだけで済むなら、黙って怒られていればいいかと思っている。
慣れというやつは、本当に怖い。
そもそも、僕に言わせれば、気がついた時にやっても何も支障はない。
一人で暮らしていた時は、歯磨き粉の蓋を開けっ放しにしても問題無かったし、便座は必要な時に下げればいい。テレビのリモコンだって、目に見える所ならどこにあってもいいし、玄関の靴も気が向いた時に片付けたって悪くない。
こんな事を思っているから、きっと何回怒られてもできないんだろう。
僕のこんな考えを彼女が知ったら、火を吹くかもしれない。くわばらくわばら。
そして、昨日の夜。
ついにそんな僕の考えが漏れてしまう事が起きた。
昨日は、会社で色々あり、精神的にも、肉体的にも疲れ果てていた。
6時半に帰宅すると、彼女はまだ帰宅していなかった。
僕は、ソファーに倒れ込み、そのまま寝てしまっていた。
どのくらい経ったのか、彼女が帰って来た。
リビングの電気がつけられ、
「いるなら電気くらいつけたら?」
明るさとその声に目が覚めた。時計を見ると、7時だった。
「ごめん。寝てたから。」
多分、この言葉も彼女は気に入らなかったのだろう。
彼女は、ベランダに視線を向け、
「洗濯物、取り込んでないよね!」
夕食の材料が入っているであろう袋をぎゅっと握りしめ、怒った。
洗濯物は、早く帰った方が取り込む約束だ。
「ごめん。今から取り込むよ。」
そう言って、重い身体を起こしてベランダに向かう。
彼女は、その姿を確認して、夕食を作りにキッチンに向かった。
事件その1だ。
夕食後、食べた食器をシンクに持って行き、僕はリビングに戻った。
彼女は食器の洗い物をする。僕はお風呂を洗い、お湯を溜める係だ。
でも、昨日の僕は、本当に疲れていて、夕食を食べたら、疲れてしまい、一旦、ソファに座った。お風呂は8時半頃だから、5分くらい休憩しても間に合う時間だった。
しかし、几帳面な彼女は、これも気に入らなかった。
「お風呂は?」
と、キッチンで食器洗いをしながら、僕に言った。棘のある怒った声で。
「少し休憩してからやりに行くよ。」
というと、特に返事もなく、食器に目線を戻した。
はぁ〜。
僕は思わず溜息をついた。
事件その2だ。
お風呂から上がり、リビングで飲み物を飲み、バラエティを見て、僕も彼女も笑い、束の間のくつろいだ時間を過ごしていた。
10時になり、彼女は寝る時間だ。
僕は、この後、ニュースを見て11時過ぎに寝る。
「先に寝るね。コップとリモコン、ちゃんと片付けてね。」
いつものセリフだ。いつもの僕なら
「了解。おやすみ。」
というところが、昨日は、なんせ疲れていた。
疲れている所に、洗濯物が取り込んでないだの、風呂を入れに行けだの、ガミガミ言われ、滅入っていた。
だから、ついつい
「はいはい。わかってます。」
と、少し嫌味っぽい言い方になってしまった。
ハッとしたが、時すでに遅し。
彼女の目が吊り上がり、
「わかってるなら、やってよ。毎日毎日、朝、起きてくるとコップは片付いてないし、氷で結露した水でテーブルはびちゃびちゃだし、リモコンだって毎日探さなきゃいけない。毎朝、片付けるこっちの身になってよ。」
と、一気にまくし立てて怒鳴った。
いつもの僕なら
「ごめん。気をつけるよ。」
という所だ。でも、何度も言うが、この日の僕は疲れていた。そして、滅入っていた。
だから、ついつい言ってしまった。
「別に片付けなくてもいいんじゃない?リモコンも、もう一つ買えばいいし。」
ここまで言ったら、止まらなくなってしまい、
「歯磨き粉の蓋だって、開けっ放しでも特に問題ないし、なんなら別々の歯磨き粉にしたっていい。トイレの便座だって、必要な時に必要な人が下げればいいし、靴だって、一足くらい玄関にあっても邪魔じゃない。洗濯物もお風呂も、そんなに気になるなら気になる人がやればいいんじゃない?」
一気に言ってしまった。ハッとして、我に返ったが、言ってしまったものは仕方ない。
さぞかし怒っているだろうと、彼女の怒声に備えて身構えた。
でも、怒声は響かなかった。
「わかった。もういい。」
彼女は静かに言って、リビングを出て行った。
後味が悪かった。
疲れていたとは言え、言い過ぎた。
本音だとしても、言い方と、言うタイミングがある。
売り言葉に買い言葉的に言っても何も解決しないし、傷つくだけだ。
そんな事、わかっていたはずなのに。
口から出た言葉は、もう戻せない。
ニュースを見たあと寝室に行くと、彼女は僕の寝る方に背を向けて、小さく丸くなって寝ていた。心がチクリと痛んだ。
これが昨日の最後の事件だ。
今朝はとても静かで、彼女は、いつもより早く家を出たようだ。怒る声も全く聞こえて来なかった。
だから、僕は彼女が出かける時に目を覚ます事はなく、いつもの時間に起きると、もう彼女が家を出た後だった。
部屋はいつも通り片付き、彼女の怒声が無いだけの普通の朝だった。
さすがに、僕も、昨日はコップを片付け、リモコンを定位置に置き、歯磨き粉の蓋を閉め、便座も下げ、靴も片付けておいたから、怒る事も少なかったと思うが。
昨日の今日で、顔を合わせにくかったから、彼女が先に家を出てくれて、少しホッとした。
テーブルには、彼女が作ってくれた朝食が用意されていた。
ベーコンエッグにかけられたラップを剥がすと、ケチャップで
「ごめんね」
と書かれていた。
昨日の言い過ぎた自分を思い出し、申し訳なさでいっぱいになる。
確かに、彼女も怒りすぎだし、言い過ぎだと思う。でも、僕がルーズすぎるのも悪い。
食事を作り、洗濯も食器洗いも掃除も、家事全般をやってくれているのに。
なのに、昨日の言い草はない。
今夜、謝ろう。
彼女が作ってくれた朝食は、格別に美味しかった。
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