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「殺す……」  まがまがしい空気とともにドアフォンを押すと、十数年来の親友、七原清正(ななはらきよまさ)が顔を出した。 「どうした、光。何があった」  光は清正を押しのけて玄関に入った。  都心からのアクセスがよく、その分やや古い造りの七階建て賃貸マンション。その四階にある1LDKは今日も少しばかり散らかっていた。  仕事も家事も人並み以上にこなす清正だが、なぜか掃除だけは苦手だ。  片付けたい衝動でむずむずするが、今はそれどころではない。 「殺す」  もう一度呪詛の言葉を吐いた時、廊下の先のリビングから子犬のような塊が走ってきた。  塊は勢いよく光にぶつかり、そのまましがみついた。 「ひかゆちゃん!」 「み、(みぎわ)……? いたのか……」 「いた!」  満面の笑みで小さな両手を伸ばしてくる。光は反射的に魅惑の三歳児を抱き上げた。  やわらかい頬がマスクを通して鼻先に触れ、柔軟剤とベビーローションの匂いがふわりと漂った。愛しさが胸を満たし、激しい怒りが一瞬だけ遠ざかった。  清正の手が伸びてきて、光の顔からマスクと眼鏡を外した。 「また変装生活か。大変だな」  人形のようだと評される顔があらわになり、汀の小さな手がぺたぺたと触わってきた。何が楽しいのか、きゃっきゃっと鈴を転がすように笑う。 「とりあえず入れ」  清正の言葉に汀の顔がパッと輝く。 「ひかゆちゃん、あしょぶ?」 「んー、わかんない」  汀はまたきゃきゃっと笑った。  可愛い。  汀は清正の一人息子だ。清正は大手食品メーカーに勤務するエリートサラリーマンで、長身、イケメン、性格よしと三拍子そろった優良物件。バツイチ子連れのくせにに絶賛モテモテ期を更新中だ。  つきあった相手の数は両手両足の指の数を足しても足りないだろう。正確な人数を本人も把握していないのではないかと思う。  その清正が結婚したのがおよそ四年前。  あまりに短期間に相手が変わるので、逆に結婚はしないのではないかと思っていたのに、大学を卒業した年、社会人一年目の十二月末に突然、籍を入れたと連絡があった。  汀が生まれたのは翌年の二月、入籍しておよそ一か月後のことで、それから一年経つ頃には清正は独身に戻っていた。  シングルファーザーになった清正は、実家の助けもほとんど借りず、手間と愛情をかけて、傍で見ていても感動するくらい細やかに心を配り、汀を大切に育ててきた。  はっきり言って溺愛レベル。  その甲斐あって汀はすくすくと元気に成長した。今は一番可愛い盛りの三歳児。天使そのものである。  心地よい重みを味わっていると、光の明るい茶色の瞳を清正の黒い瞳が覗き込んできた。  長くなった光の髪を、節の目立つ長い指で軽く梳く。  心臓がコトリと小さく鳴った。  清正の手に触れられると時々身体がかすかな熱を持つ。それに気付かないふりをして、光はそっと視線を逸らした。
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