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1.出会いは葉桜の季節
恋に恋するのが許されるのは、何歳までなんだろうか。
月曜日の朝、電車に揺られながら、私、芳川美月はそんなことを考えていた。髪を一筋耳に掛ける。
スマホで働く女性向けの情報サイトを見ているのだけど、何だかやたらと「おひとりさまのマンション購入のススメ」とか「シングル女性の老後設計」とかの特集が目についた。自分と同じ二十五歳の女性が「一人で生きていくつもりなので」とマンションを買っていたので驚く。
彼氏いない歴イコール年齢の私は、そろそろ焦った方がいいんだろうか。なんか、月曜の朝から凹んできたな。
そうやってガックリしつつ出社した日に、私は彼に出会った。
一見、ごく平凡な出会いだったけれど、それが全ての始まりだった。
「今日中途で入社した日向彰暢さんです」
ブラインドの隙間から眩しい光が漏れる、うららかな春の朝である。
朝礼で、課長が見慣れない男性を連れて来て、課員の前で紹介した。三十そこそこだろうか。並ぶ課長が子供に見えるほど背が高かった。黙って軽く頭を下げる。
……えらく男前だな。
口の中でこっそり呟いた。彫りが深めで、すっと鼻が高い。くっきりした二重の綺麗な形の目をしているが、妙に光の無い、セラミックのような瞳だ。
造形は、いい。
「なんか、こわっ」
私の横に立っていた同期の乙ちゃんが囁く。私は頷いた。
新しい職場に出社する初日って、出来る限り愛想を振りまこうとするものじゃないのか。むすっと口を結んだ日向さんは終始真顔で、何やら近寄り難いオーラを放っていた。しかも顎髭をはやしている。イカツイ。
「髭って服務規程オッケーだっけ……イキってるなあ」
乙ちゃんが呟く。私は首を傾げた。
「さあ……」
「狼男みたい」
「……どゆこと?」
私達がコソコソ話していると、課長が言う。
「週末花見兼歓迎会ね。幹事は芳川さんと乙ちゃんお願い」
私は慌てて手を挙げて、ハイ、と返事をした。乙ちゃんが「お花見めんどくさあ」と小さな声で言う。私と乙ちゃんは入社三年目なのに、後輩がいないので、いまだ末席業務全般を請け負わされている。
日向さんは、ほんの僅かに目を細めて課内を見渡した。無表情だったけれど、鋭い眼光を隠しきれない、何かを探るような目だった。
一瞬だけ目があって、ほんの短い時間、私達は見つめ合った。
これから起こることについて、その時の私には知る由もなかったけれど、彼がどう思っていたのか、それは分からない。
私の勤めるイツワ化学は、大手の化学メーカーだ。
業界内の位置は中堅といったところだろうか。半導体の材料や、タッチパネルやセンサーの部品の製作販売をしていて、技術には定評があるけれど、一言で言ってしまえば、まあ地味。戦前に創立されているので、歴史は古いものの、社風や体制も何かと古い。
「芳川さん、ちょっといい?」
朝礼が終わり、私が自席に戻ろうとすると、係長の西尾さんに呼び止められた。
「はい」
こっち、と営業課共用の打ち合わせブースに連れて行かれる。課員の席がある執務ゾーンとの間に、衝立で簡易に区切っただけのスペースだ。
下がり眉が気弱そうに見える西尾さんは、いつも以上に申し訳無さげに言った。
「コニー電機なんだけど、今日入った日向さんに僕から担当変わるんだよ」
「えっ」
思わず大きな声を出す。コニー電機は、私が入社以来、西尾さんがフロントの営業、私がサブという名の営業事務をしている取引先だ。
「引継はちゃんとするつもりだけど、芳川さんはコニー電機も長くてよく分かってるし、日向さんのフォローしてあげて」
「……はい」
担当替えに自分が口を出す余地なんてないことは、分かっている。
しかし、コニー電機は私が最も力を入れている担当先で、いい関係が出来ているつもりだ。フロントで担当してみたい、と前から課長には言っていたし、西尾さんも、「次の担当替えでは芳川さんをフロント担当に推してあげる」なんて言ってたくせに。
「分かりました。でも、西尾さん……」
「芳川さん、焦らない焦らない。そのうちチャンス来るよ」
西尾さんは私の台詞に被せて言う。
「今日、日向さんの挨拶回りなんだけど、僕行けなくてさ。僕は後日一人で行くから、今日は芳川さんが日向さん連れてってあげてくれる?」
「あ、ハイ……」
西尾さんは忙しそうに、さっさと自席に戻っていってしまった。
そのうちっていつよ……。
私はがっかりして肩を落とした。
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