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午後九時前に何とか仕事は一段落した。男性はまだ何人か残っているものの、女性の社員は私が最後だ。
私はとりあえずパソコンの電源を落とした。パソコンのオンオフで勤怠を管理するからだ。年度末だった先月も、残業時間ギリギリだったが、今月は大丈夫だろうか。
喉の渇きを感じるけど、持参しているハーブティーは飲み切ってしまった。
一本だけ、あまーい紅茶を飲んで帰ろう。
そう思って、執務室の外の廊下の角にある自動販売機に行くと、日向さんと鉢合わせた。日向さんは水のペットボトルを取り出して腰を上げたところだった。鞄を持っているので、ちょうど出先から戻ってきたところだったらしい。
「……お疲れ様です」
声が強張る。
あれから、日向さんとは業務上必要最低限の会話しかしていない。あの夜のことはどういうつもりだったのかも聞けていない。しかし、多分どういうつもりも何もなかったんだろう。
日向さんは平然と返す。
「お疲れ」
「……遅いですね」
日向さんがこんな時間に外出していることなんて、あまりない。この人はほとんど時間外労働をしないのだ。定時を過ぎるといつの間にか消えている。
「まあ、そういうこともあるね」
日向さんは自動販売機に小銭を入れた。
「何か飲む?」
「あ、え、すみません」
自分で買いたかったけど、入れてくれたお金をわざわざ出させるのもどうかと思う。私は紅茶のボタンを押した。
「芳川さん、毎日遅いけど、時間外労働の上限大丈夫なの?」
ペットボトルのキャップを回しながら、日向さんが聞く。
「う……ギリギリです」
私は答えながら、そういえば、日向さんから振られた仕事は無茶なやつがない、と気が付いた。依頼事は締め切りに余裕を持ってされるし、指示も具体的かつ簡潔でやりやすい。
日向さんは入社して一ヶ月も経たないうちに、紛れもなく営業二課のトップセールスになっていた。ルート営業で新規の開拓もほとんどないので、個人の成績は分かり辛いのだけれど、それでも日向さんが担当した先は、どこも一様にゆるゆると数字を伸ばし始めていた。
残業もせずに、どうしてそんなにうまく仕事を回せてるんだろう。紅茶の缶で両手を温めながら思うけど、聞いてもどうせ教えてくれないだろう。
日向さんが水を飲んだ。喉がごくりごくりと大きく動いているのを、私は思わず見てしまう。
あ、駄目だ。
あの日のキスを思い出してしまう。今水を飲んでいるあの唇の柔らかさを、熱をもった舌が頬の中を舐めてくる感触を。
私が自分の体の芯の熱を感じた時、日向さんが、
「投資することだよ」
と言った。
「……えっ?」
思わず聞き返す。
「目の前の仕事を闇雲にこなすより、仕掛け作りに時間を投資すること」
日向さんは私の顔を見て、真顔で淡々と言った。
「ああ……はい……」
自分のスカートを握りしめて、私は小さい声で返事した。仕事の回し方の話だと理解する。自分が恥ずかしい。
「何を思い出してんの」
日向さんは表情を変えずに言った。
「……」
なぜそんなことまで読むのか。
「その先もして欲しかった?」
薄っすら笑っている。
「……人事に通報しますよ」
「それはちょっと困るな」
好きにすれば、とか言うかと思ったが、さすがに困るんだ。
「早く帰れよ」
日向さんはペットボトルを肩の上に上げて、執務室の方へ歩いて行った。
とりあえず、日向さんはあの日のことなんて何とも思っていないらしい、ということは分かった。
やっぱりあの人にとって、あれは大したことではなかったんだ。
何度も言い聞かせていたことなのに、なぜだか胸が痛くて、私は戸惑った。自分がよく分からない。
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