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しかし結果として、その潜入はわずか二週間で目的を遂げた。
日向が目をつけた女と寝たからである。その女は営業課長の愛人であり、寝物語にあっさり課長のスパイ行為を吐露したらしい。
「どうかと思うよ! 俺はどうかと思う!」
俺は何十回目か分からない文句を、日向に言った。
「うるせーな。しつこい」
日向はうんざりした表情で答える。
「いくら相手は愛人業の女だからって、人として良くないぞ!」
「俺は人である前に潜入捜査官だ」
「潜入捜査官である前に人だよ!」
深夜のオフィスである。
俺達は声を潜めて言い合いながら、懐中電灯の灯りの下、没収する資料をガサガサと段ボールに突っ込んでいた。今夜中に片付けてドロンだ。
にしても、無人のオフィスというのは不気味である。
この製薬会社のマスコットキャラクター「パッキー君」のプラスチックの置物が、在庫過多なのかデスクやキャビネットの上にワンサカ鎮座しているのだが、このパッキー君はちょっと「チャイルドプレイ」のチャッキーに似ているのだ。暗闇の中で俺らをせせら笑ってくる。キモチワルイ。
黙っていると気が滅入るため、俺はせっせと日向に説教した。
「お前ね、相手だけじゃないよ。自分のことも大事にしなさいよ」
俺はデスクの引き出しをピッキングしつつ、日向に言った。
日向が吹き出す。
「そういう台詞はソープ嬢にでも言ってやれば」
「今日びのソープ嬢がこんな台詞で落ちるかよ」
「分かってんじゃん」
俺は溜息をついた。
「仕事のためなら何でもやるなんて、今時じゃねえよ。刺青入れて、怪我して殺されかけてさ。抱きたくもない女抱くと、心まですり減るぞ」
日向が何も言わないので、怒ったのかと振り向くと、不思議そうな表情で俺を見ている。
「変わってるな、森崎って」
「えっ、どういう意味だよ」
日向は答えずに、資料を詰めた段ボールを台車に積んだ。一個乗り切らない。
「俺これ手で持つから。お前台車押して」
日向が言い、大きな段ボールを一つ、両手で抱えて歩き出す。俺は台車を押して後に続いた。
日向は重い段ボールを器用に片膝に乗せて壁で支え、廊下へ出るドアを開ける。
そこには、髪の長い女が立っていた。
「ピャーッ!」
俺は日向の後ろから情けない悲鳴を上げた。出た!
しかし、女がオレンジ色のポリタンクを振りかざしているのに気が付き、ハッとした。オバケじゃない、人だ。
日向は持っていた段ボールを床に捨てて、身をよじったが、すぐ後ろに迫っていた台車に足を取られた。避け切れずに、ポリタンクの液体をまともに浴びる。刺激的な臭いが鼻を突いた。
「畜生」
呟いた日向が女に掴みかかろうとすると、髪を振り乱した女が、その動きを制するように手を掲げた。ライターを握っている。
「ヒヤアアア」
俺はまた情けない悲鳴を上げた。灯油か、ガソリンか。せめて灯油であってくれ。
「動かないで」
女が叫んだ。俺は、やっとその女が営業課長の愛人であることに気が付いた。日向と寝た女だ。
狭いドアの付近で膠着している二人を前に、俺は右往左往した。床に落ちたポリタンクから、液体はトクトクと広がっていく。
やばいやばいやばい。消火器は廊下にある。お前らそこ通してくれ。
「森崎」
日向の背中が俺に呼び掛けた。
「えっ」
「そのまま下がって、窓から逃げろ。灯油踏むな」
お前は?
俺が言おうとした時、女が
「日向君、一緒に死んでよ」
と、悲愴な声で呟いた。その足元にも、べったりと灯油がついている。
日向が舌打ちした。ふわりと重心を下げ、女の胸元に飛び込む。
難なくライターを奪い取るかのように見えたが、その瞬間日向の右肩ががくんと傾いだ。
「あっ」
以前の潜入で折れた右肩だ。まだ完治していなかったのか。
日向は女にぶつかり、抱き合うようにして灯油の海に倒れ込んだ。ライターがスローモーションのように宙を舞う。
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