697人が本棚に入れています
本棚に追加
「森崎、逃げろ」
日向が叫んだ。
俺は逃げなかった。無我夢中で、掴んでいたものを投げつける。
それは完璧な軌道を描き、空中でライターにぶつかり廊下の奥へ弾き飛ばした。
「マジか」
日向がそれを見て、呆然と呟く。俺が投げたのは、オフィスに溢れていたパッキー君人形だった。高校野球はできなかったが、なかなか良い肩してることが証明できたんじゃないか。
俺は灯油を踏み散らして、廊下に設置してある消火器を取りに行った。栓を抜き、遠慮なく二人に散布する。真っピンクの粉塵が舞った。
「きゃー、待ってえ、ちょっと」
さっきまで焼け死のうとしていたくせに、女は顔を覆って消火剤から逃れようと身を捩った。
日向が立ち上がりながら咳き込む。
「口入った」
「唾そこら辺に吐くなよ、汚い」
「もう既に汚えよ」
日向が溜息を付きながら、女に手を差し伸べる。泣きそうな顔をした女は、その手を取らなかった。
「ごめんな」
「……」
「俺はあんたと一緒に死ぬ程、価値のある男じゃないよ」
灯油と消火剤に塗れた酷いなりで微笑んだ日向の顔は、どこか悲しげで、男の俺から見ても、心の惹かれる何かをたたえていた。これは大抵の女がころりと落ちるだろうなあ。
「……日向君、元気でね」
やがて、女は呟いた。
自分で立ち上がり、ふらふらと非常階段の方へ歩く。すぐにその背中は闇に溶けていった。
最初のコメントを投稿しよう!