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この会社では数年前一般職が廃止されて、男女とも総合職として採用されているのに、実態として男子社員が営業で、女子社員が営業事務の仕事をしている。隣の課では、私より一年後輩の男子社員が、大手取引先をバンバン担当しているっていうのに。
私はフロント担当が出来なかったショックで、中途入社の怪しげな男とペアを組まされた衝撃の方は薄れていた。
「運転、すみませんね」
コニー電機に向かう道すがら、私は日向さんに言った。日向さんが社有車のハンドルを握り、私は助手席に座っている。私は運転免許を持っていないのだ。
「人の運転、嫌いだから」
日向さんは前を向いたまま素っ気なく言った。扉に右手の肘をついて、左手でハンドルを握っている。どこか怠そうだ。入社初日というのに、こう、もっとシャキッとしろよ。
少しイラッときた私は、
「日向さん、片手運転は道交法違反ですよ」
と言ってやった。日向さんは横目でちらりと私を見て、鼻で笑った。なんだ、この人。横顔がやたらと整っているのがなぜか余計にムカつく。
仕事の話をしよう、と切り替え、私は話し始めた。
「西尾さんが引き継ぎしたと思うんですけど、コニー電機側の担当さんも半年くらい前に変わったところで、減額要求が結構キツいんです。価格の見直しは最近したばかりだし、初対面では言わないかと思いますけど、この先おいおい……」
「西尾さんは、芳川さんがよく分かってるから任せとけばいい、って言ってたけど」
日向さんが被せて言った。
「ええ」
丸投げかよ、西尾さん……。
まあ、どうせあの人は自分の担当してる時から丸投げだったけど。それなら私にフロント担当させてくれればいいのに。諦めて、小さな声で言う。
「……できることは私がします」
それにしても、この人はどのくらい即戦力なんだろうか。
私が入社以来、営業二課に中途入社の社員が来るのは初めてだ。営業は慢性人手不足だけれども、「上は増員要請なんて全く受け付けてくれない」と課長がよくこぼしている。それがいきなりの中途採用。ライバルメーカーから引き抜いたとか?
日向さんの澄ました横顔を窺う。
「……日向さんは前の会社も化学メーカーですか?」
「いやー? 直近は広告代理店」
日向さんは飄々と答える。
「え、だいぶ畑が違いますね」
「でも製薬もいたことあるし。似たようなもんだろ」
「……違うと思いますけど」
他業種か。広告も製薬もよく知らないが、地道なルート営業の化学メーカーに較べると、大分イケイケの営業のイメージがあるし、この人に似合っている気がする。
どうしてうちの会社に?
日向さんに聞こうとした時、車がコニー電機の敷地についた。
コニー電機の応接室に通されると、すぐに購買担当の佐々木さんが来た。五十がらみだけど平社員。赤ら顔の男性だ。名刺を交わすなり、遠慮なくジロジロ日向さんを見やる。
「なんかイツワさんっぽくない人が来たね。西尾さん、何かやらかしたの?」
「やだ佐々木さん、そういうんじゃないですよ。定期的な担当替えです」
私はにこにこと営業用スマイルを見せたが、ふーん、と佐々木さんはつまらなそうに言う。
「最近はうちもなかなか厳しくて、是非お値段勉強して頂きたいななんてね。ほら、前任の西尾さんって、暖簾に腕押しの人だったから」
いきなりか。日向さんの隣で、私は笑顔を引きつらせた。
コニー電機の前担当の副田さんはこちらの事情も理解してくれるやりやすい人だったのに、どうやら何か失敗をして左遷されたらしい。次に来た佐々木さんは、何でも取引先に責任を押し付けたいタイプの、やり辛い人だった。
「佐々木さん、価格見直ししたばかりじゃないですか、あはは」
私はとりあえずやり過ごそうと、明るく笑って言った。一年に何回も価格見直しなんて、無理!
しかし日向さんがにこりとも笑わずに言った。
「高いですよね、うちは」
私はぎょっとして思わず日向さんを見上げた。佐々木さんが嬉しそうに顔をほころばせる。
「そう思うでしょ、やっぱり!」
「それだけ唯一無二の技術があるという自負です」
「は」
「御社に納品している基盤材料と、同等のものを用意するメーカーはうちの他にありません」
ぴしゃりと言い切る。
お客様にそんな言い方はない。フォローしなくちゃ。焦った私に口をはさむ隙を与えず、日向さんは低いけれど通るいい声で言った。
「御社が抱える本当の問題点はなんですか?」
佐々木さんが目を瞬く。
「本当の……」
「なぜうちの価格を下げたいのでしょうか? 御社の財政状況は堅調ですね。今までのスタンスからしても、過度に取引先を締め上げて多少の経費を落としたいとは思えない。このコストをカットした分、どこに振り分けたいのでしょうか」
私は今ひとつ話が読めずに、日向さんと佐々木さんの顔を見較べた。
佐々木さんは何か考えあぐねているような顔つきだった。多分上からは、部品の価格を下げさせろ、としか言われていないのではないだろうか。そういや何でだろうな……という表情だ。
「その問題解決にこそ、佐々木さんの手腕が発揮されるべきです。私にお手伝いさせて頂けませんか」
そう言って、日向さんはここで初めて、ふっと笑った。
思わず私が見惚れるような、甘い微笑みだった。佐々木さんが陥落する音が聞こえた、気がした。
……この男…… ド級の人たらし……。
少女のようにドギマギし出した佐々木さんの方から、今度改めて打ち合わせして欲しいとの申し出があり、その場を辞去することになった。
「うちの商品の原価分析とか、コニー電機の財政状況とか、調べてきたんですか?」
謎の敗北感を味わいながら車に乗り込んで、日向さんに聞いた。
「基本の基本だろ」
「そうかもしれないけど、入社、今日ですよね……」
日向さんは上着の内ポケットから煙草の箱を取り出して、一本咥えた。しれっと言う。
「俺、頭いいのよ」
「……」
「煙草吸っていい?」
「……駄目です。社有車は禁煙です」
「窓開けるからさ」
「駄目です」
煙草を離した日向さんは小さく舌打ちした。
「芳川さんさー、社内では細かいことキャンキャンうるさいのに、客には言うこと言えないタイプだよね」
私は、はあ? と思わず甲高い声をあげた。
「ルールはルールですし、お客様に愛想良くするのは当然じゃないですか!?」
「それじゃフロントで営業は当分無理だよー」
日向さんは語尾に変な節をつけて歌うように言った。思わず、顔が赤くなる。
「ムカつきます!」
心の中で言うつもりが、盛大に口から出た。
日向さんは鼻で笑っただけだった。
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