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なのに、不思議と怖くない。
日向さんが左手で私の頬に触れた。びくっとするが、その目から目が離せない。
睫毛、長いな。なんでこんな時にそんなこと、と思った時には、唇を塞がれていた。
「んっ」
柔らかいものが唇を割って入ってくる。日向さんが私の頭を抱えるようにして、強く舌を絡めた。駄目だ、と思うのに、痺れて力が入らない。
「ん、ん……」
長いキスで酸欠のようになってきた頃に、やっと唇を離された。唾液が口の端からこぼれる。
「……」
私は日向さんを見つめたが、言葉が出てこなかった。
「やだった?」
日向さんが低い声で聞いた。
これが嫌なのかどうか、よく分からなかった。私この人嫌いだったんじゃなかったっけ、と思ったが、唇に残る感触の甘さが、とてもそうと思えない。
けれど、日向さんがもう一度顔を寄せてきたとき、はっとした。
駄目だ。さすがにこれ以上はまずい、気がする!
咄嗟に日向さんの口を手のひらで塞いだ。
「ぐ」
「すみません。待って下さい日向さん」
「なんで」
鼻白んだ顔をされるが、思い切って言った。
「私、初めてなんです」
日向さんが静止した。
「……マジで?」
コクコク頷く。
「……」
日向さんはしばらく黙っていたが、ゆっくりと身体を起こした。呟く。
「ごめん。悪かった」
「……」
ホッとしながら、同時に、どこか残念に感じている自分がいることに戸惑っていた。なんて処女だ。
「すみ、ません」
なぜか謝る。
「いや」
日向さんは目をそらして、さっさと立ち上がる。
「帰るわ」
「は、はい」
やれなきゃ帰る。そりゃそうだ。
私はも慌てて立ち上がり、日向さんを玄関で見送った。
「あの、真っ直ぐ行ったら大通りなので、タクシー拾えると思います……」
言いながら、私は既に後悔していた。
ああもう、何てことをしてしまったんだろう。また来週から毎日顔を合わさないといけない人だというのに、気まずい。それともこんな一回くらいのキス、大人なら割り切ってなかったことにできるんだろうか。
日向さんがドアを開けて外に出た。
「じゃあ」
私は小さな声で言う。逃げるみたいに中からドアを閉めようとしたが、日向さんがドアを押さえた。
「え……」
顔をあげると、日向さんは背を屈めて、私の唇に軽くキスをした。
「おやすみ」
小さな声で言う。穏やかで優しい目だった。
「……おやすみ、なさい」
私は呟いた。
玄関のドアが、ゆっくりと閉まった。
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