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2.ハードワーカーは今どき流行らない
私は、土日の間にそのことを消化しきれなかった。
月曜日早めに出社したものの、仕事では普段しないような初歩的なミスをしてしまった。金曜日の五時ダッシュを引きずって、ただでさえ業務は滞りがちだというのに。日向さんはずっと外回りに出ていたらしく、顔を合わせずに済んだのは幸いだった。
昼休み、私がコンビニで買ったサンドイッチを持って、開放された会議室に入るなり、お弁当を広げて先に待っていた乙ちゃんが言った。
「美月ちゃん、何かあったの? 何か変よ」
乙ちゃんも同じ課で日向さんとペアの担当もあるんだし、このことは言うまい……という私の決意はあっという間に崩れた。もう自分で処理しきれない。
「乙ちゃん、あの、絶対絶対、誰にも言わないでね」
「えっ、うん」
廊下も無人のことを確認して会議室のドアを閉め、私は金曜日の顛末を乙ちゃんに自白した。
「まじか……」
乙ちゃんは弁当を食べるのも忘れて呆然と呟く。私は恥ずかしさに顔を覆い、机に突っ伏した。
「えっ、美月ちゃん、まさかファーストキスじゃないよね」
「……そのまさかなんですけど」
乙ちゃんは、ううむ、と唸ってしばし絶句した。ややして、憤慨したように言う。
「許せんな日向彰暢……。普通、自分の歓迎会で早速女子社員食う? しかも蠅取草みたいな女じゃなくて美月ちゃんを……」
ちなみに蠅取草・戸田さんと乙ちゃんは滅茶苦茶仲が悪い。
「いや、でも私も流されたし……ただ日向さんを責める気持ちにもならないのよね……」
机に伏したままで私が呟くと、乙ちゃんはプリプリして言った。
「流されるよ、あの顔で口も上手くてさ。ほんと、トップ営業で女癖悪くない人って見たことないわ」
まあ、でも、と続ける。
「まだ良心あったじゃん。最後までやらなくて、本当に良かった」
「……初めてなんですって言ったから面倒くさかったんだろうね」
「まあ……そうだろうね」
乙ちゃんは声を落とし、言葉を選ぶように言う。
「あのね、美月ちゃんはね、とーっても可愛いし、ピュアッピュアだし、魅力的だと思うよ」
「……バカにしてない?」
「してないよ。でもさ、それだけに、ああいう何ていうか見るからに色気たっぷりの男は、いきなり上級者向け過ぎっていうか」
乙ちゃんの言わんとすることは、私にもよく分かった。
日向さんは多分めちゃくちゃモテる。きっと、あの日のことはちょっとした出来心だ。ヤれそうな、無防備な女がいたから遊ぼうと思ったが、処女だったから面倒でやめた、というだけだ。
それはこの土日、私が自分に言い聞かせていることだった。しかし、そうすると、あのやたらと優しいキスを思い出してしまう。
何を期待してるのか、私は……。
経験がないから、あんなことをされて動揺してるだけ。ちょっと脳がバグっちゃってるだけ。我ながら、処女チョロ過ぎる。
「美月ちゃん……」
箸を握った乙ちゃんが真剣な声で言った。
「まさか好きになったんじゃないよね? 日向さんを」
「えっ」
私は思わず持っていたサンドイッチを机に落とした。赤いトマトが白い机に散らばる。殺人事件みたい。
その事件現場を見下ろして、
「……ないよ」
と私は呟いた。
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