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それからしばらくの間、せっせとよく働いた。
歓迎会以来滞りがちだった仕事を消化しないといけなかったし、そもそも四月は営業のスタートアップ月間で、人も数字もよく動く。営業事務の仕事はかなり忙しかった。
「芳川さんごめん、この見積もり、明日までにあげて欲しい」
「美月ちゃん、この数字まとめといて」
「契約書チェックしといて」
「お客の会長の誕生祝いのお花送っといて」
取引先ごとにペアが違うので、多方からガンガン仕事が降ってくる。でも、大半がもっと早くおろせたでしょ、という内容だ。カタカタせわしくキーボードを叩きながら、私は内心ぶちぶち文句を言う。
事務の仕事が嫌いなのかと言われたら、そんなことは無い。結構出来る方だという自負もあるし。ペアの担当に感謝されるのは嬉しいし、正確さとスピードが求められる仕事を、きっちりこなすことに快感はある。
けれど、これを数十年続けられるのかと言われるとイメージが湧かない。
やっぱりフロントの補佐だし、私しか出来ない仕事ってわけじゃないし。
腰掛けOLなんて言葉をそう聞かなくなって幾年月。うちの会社はまだまだ進んでないけども、それでも簡単な事務仕事は派遣社員や契約社員に任せるようになってきているし、これからの時代はAIが取って代わるのかもしれない。自分がもっと年齢を重ねて、新しいことを習得するのが億劫になってきてから放っぽり出されたら、どうなるんだろう。という漠然とした恐怖と焦りもある。
「自分しか出来ない仕事」ってのをしてみたい。なんて、時々思う。
壁の時計を見上げると、午後五時半だ。定時まであと三十分。定時退社は無理だけど、今日はせめて八時くらいには帰りたい。
「えー、今からですか?」
向かいの席から焦った声が聞こえた。私が目をやると、営業事務の先輩、岩城さんと、係長の西尾さんが話している。西尾さんは岩城さんに書類を差し出し、ペコペコと拝み倒す。
「ほんとごめん、岩城さん」
「私今日息子の保育園お迎え担当なんです、定時で帰らないと……」
岩城さんは引きつった顔で、壁の時計と西尾さんが差し出している書類を見較べた。
「どうしたんですか」
私が立ち上がって声をかけると、西尾さんがバツが悪そうな顔をする。
「……今日まで処理のN社の請求書忘れてて……」
「私やりますよ。岩城さんは帰って下さい」
大型のデスクトップパソコンの上から手を伸ばし、西尾さんから書類を受け取った。岩城さんも西尾さんもホッとした顔をする。
「美月ちゃん、本当にいつもゴメン……」
「岩城さんは悪くないですよ」
私が言うと、西尾さんが眉を下げる。
「すみません。今度奢るからね」
西尾さんは手を擦り合わせた。
いつもそう言って奢ってもらったことないですけど。西尾さんは気弱そうに見えて図々しいのだ。私はやっていた仕事を中断して、請求書の処理に取り掛かった。
岩城さんは小さい子供が二人いるワーキングマザーだ。年次は六年目だが、育児休暇やらで合計三年くらい休んでいるので、実務経験は私と同じくらいだろう。
仕事も頑張っているけど、どうしても時間の制約があると、できないことは出てくる。子供はしょっちゅう熱を出すし、こうやってペアの担当が無茶な仕事を振ってくる。
ここ最近は、席の近い私が岩城さんのフォローをするのが日常になっていた。席が近いといえば蠅取草・戸田さんは岩城さんの横だけども、今も聞こえないふりをして、自分の仕事をせっせとこなしている。
まあ、私も周りに助けてもらってるし。いつかワーキングマザーになる可能性も、なきにしもあらずだし。お互い様お互い様。私は自分に言い聞かせながら、キーボードを叩いた。
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