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「日向さん、……怒られるんですね」
やっと二人きりになって、私は小さい声で言った。
そりゃそうだろう。ドラマで見た公安の刑事は妻子にも本当の職業を明かしていなかった。潜入捜査官にとって一般人にそれを知られるのは、最大の禁忌に違いない。
この仕事で恋愛はご法度、という森崎さんの言葉が頭の中で何回もリフレインしていた。
日向さんは、力なく頷く。
「うん……まあね」
「すみませんでした」
私が小さな声で言うと、日向さんは煙草を胸から取り出した。
「何でお前が謝んのよ」
「ありがとうございました」
私は頭を下げた。
日向さんが黙っているので顔を上げると、彼は煙草を咥え、真顔で私を見ていた。
謎めいていて恐ろしくもあり、その分どうしようもなく惹かれた、黒いセラミックの瞳。
昨日さよならを告げた日向さんの低い声を、思い出していた。
私達の恋は、初めからきっと終わりがあって、日向さんはそれをずっと知っていたのだろう。
私は、あなたの身を切るようなその孤独を、一番傍にいて分かち合いたかった。私ならそれをできると思ったのは、慢心だったんだろうか。違うと思いたい。
それでも、仕事より私を選べなんてことを、私は絶対に言わない。
「どんな危険な人であろうと、私はあなたのことが好きで好きで仕方がありませんでした。これからも、ずっとそうです。きっとあなたも同じ気持ちでいてくれたと信じてます」
私の声は、わずかに震えていた。
生温い風が吹く。涙が頰にこぼれたが、拭わなかった。
「私はきっと、それで一生生きていける」
火のついていない煙草を、日向さんがコンクリの地面に捨てた。
「美月」
愛してる。
日向さんがそう言った気がしたのに、私はよく聞いていなかった。その時に、さっきまで蓮見さんが背にしていたタンクの陰から、何かが飛び出したのが見えたからだった。
「あっ」
叫んだ私が咄嗟に日向さんに飛びついたのと、その何かが真っ直ぐ走ってきて、日向さんの背中にぶつかったのは同時だった。
日向さんの喉から、ぐっと息を詰める音が聞こえた。
「死ね」
日向さんの背中にぶつかった、見覚えのあるハゲ頭が言った。佐藤さんだった。手にギザギザの大きなナイフを持ち、その刃から真っ赤な血が滴っている。
「てめえ……」
日向さんが絞り出すように呟いた。ふうっ、と血飛沫が上がったのが、私にはスローモーションのように見えていた。
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