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「ああ、分かった、柏木さん。……違う、ボス」
相手の本名を呼んでしまい、また怒られたようだ。日向さんは、すんません、と言って暗澹たる表情で電話を切った。溜息をつく。
どうも今回の仕事で、日向さんは良いところがなかったらしい。イツワ化学にいた時はミスして課長に怒られることなんて一度もなかったと思うのに、上司に謝っている様子は新鮮だ。
日向さんは髭を剃った。余程ポリシーがあるんだろうと思っていたのに、「全然ない。少しでも印象を変えるために、潜入ごとに髭生やしたり眼鏡かけたりするだけ」とのこと。そんなの効果あるんだろうか。ちなみに、髭がない方が断然私好み。
「ご飯、できましたよ。もう食べられる?」
「うん」
私がカウンターキッチンから呼び掛けると、日向さんがダイニングに移動してきた。
ここは日向さんの家である。私に隠し続けていた日向さんの家は、なんと湾岸の高級マンションだった。私のマンションの倍くらい広いし設備のグレードも高いし、多分お家賃は倍じゃきかない。
結構綺麗に片付いているし、座り心地の良いソファや私の切望するダイニングテーブルもある。きちんと整理された大量の本とトレーニング器具からは家主の人となりが透けて見え、何ていうかもう、凄くまともな部屋だ。アウトロー感ゼロ。
「こう、古いアパートの二階のベランダで煙草吸いながら、一階のプランターにじょうろで水をやるような生活してるのかと思ってました」
最初にこの家にお邪魔した時、私はびびってそう言い、日向さんは呆れ顔だった。「この仕事は一番セキュリティが大事」だそうだ。
「どうですか、傷は」
ダイニングで日向さんと向かい合って、鯖の味噌煮を食べながら聞いた。
「もうだいぶいいよ」
「それは良かった」
あれから、私はマンションに泊まり込んで日向さんの身の回りのお世話をしている。昼間は会社に行っているから、朝夕の食事と、傷の消毒の手伝いくらいだけれども。
日向さんが佐藤さんに刺されたのは私の責任だ。心が痛む。でも、日向さん曰く、個人的な怨恨で刺されたというのは間抜けなので、業務上の怪我と思いたいらしい。よく分からないプライドだけど、あまり謝るのはやめた。
きっとお世話の申し出も断られるだろうと思ったのに、受け入れられて今に至る。でも、一体いつまで続けるべきだろう、というのが今の悩みだ。何だか、段々ただの同棲のようになってきているし。日向さんはあんなに頑なに泊まりを拒んでいたのが嘘のように、私が同じベッドにいてもすやすや寝ている。
あの屋上で、私は別れを覚悟したはずだった。それがこんなズルズルとなっちゃって。でも、別れるんですよねー? と自分から聞く勇気なんて全然出ない。
「……ずっと、言わなきゃいけないと思ってたんだけど」
不意に日向さんが言ったのは、食後のコーヒーを飲んでいる時だった。私はドキリとして顔を上げた。両手でマグカップを包んだ日向さんは真顔だ。
「……はい」
「こないだ、屋上であのハゲに邪魔されて途中になったから」
「ええ」
「本当にすまなかった。色々隠してたこととか、今回の一連の件で振り回して巻き込んで、悪かった。ごめん」
「いいですよ、もうそれは。……日向さんは、そういう仕事なんだから」
私は言いながら、胸が締め付けられるようだった。
来てしまったんだ。この時が。今日は泣かずにいられるだろうか。
「俺はこの仕事を辞めるわけにはいかない。何となく始めた仕事だけど、今は俺の生き甲斐だから」
日向さんは少し俯き、髭がなくなった顎を撫でた。
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