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「前に変な夢を見てさ、その夢で見たペペロンチーノが滅茶苦茶美味くて。それで作るようになったんだ」
「へー。どんな夢だったの?」
「いやあ、すごい夢だよ。洗面台に鯉がいてね、そいつがうるせえのなんのって……」
冗談交じりにあの不思議な体験を語る。あの鯉は確かにとんでもない野郎だったが、あいつと関わってから自分は少しまともになれたのだ。あの鯉はペペロンチーノを通して、自分に不足しているものを教えてくれたのかもしれない。
……いや、絶対にただ自分が食べたかっただけだな。思い直して麺を口に運ぶ。
「それでさ、茹でる鍋まで指定してくるんだぜ。そんな狭い鍋で茹でるつもりかって怒鳴るんだ。まるで軍隊みたいなスパルタだったよ」
「えー、すごい鯉だねえ」
くすくすと笑いながら幸せな会話を紡ぐ。本当にあいつは変な鯉だった。
ニンニクの匂いが窓から外へと流れていく。近くを通りがかった人は、きっと腹を空かせるに違いない。もしかしたら今日の晩はペペロンチーノにする奴もいるかもしれないな。少しおかしくなって男は微笑んだ。
「キレると手がつけられないんだ。バンバルオオォウって吼えるんだぜ? 龍みたいな迫力で」
「あはは、ライオンよりも怖いね」
「まったくだよ。あいつなら猛獣だってぺろりと喰っちまいそうだ」
あのとてつもない怒鳴り声を思い出し、思わず肩をすくめる。あの鯉は、今も誰かの洗面所に現れてはパスタを作らせているのかもしれない。
「もう俺は立派なペペロンチーノ・ボーイだってお墨付きをもらったよ」
「えー、やだー! ふふふ」
恋人たちはおかしな魚の話で笑い合う。ペペロンチーノは綺麗にふたりの胃袋に収まってしまった。
もし次会った時は、ペペロンチーノをご馳走してやろう。あれからずっと作り続けて結構腕も上がったんだ。奴さん、きっとびっくりするぜ。男はあの日を思い出してはそんなことを考える。
「……ん」
どこからかとてもいい香りがして、その出所を探る。
誰かが作っている最中なのだろうか、窓から美味そうなミートスパゲティの香りが届いている。
その香りを楽しんでいると、ふと、妙な空耳が聞こえたような気がした。
待て! パスタに差し水など言語道断だッ! 温度が下がって表面がべたついてしまうだろう! 君は海鼠みたいな舌触りのパスタを食べたいのかね! そもそも差し水というのは火力調整が……。
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