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ホテルのフロントは、朝が修羅場と化す。
チェックアウトするお客様で混雑するからだ。中には会議の時間に間に合わないと騒ぐサラリーマンも居る。それならもっと早起きしろよ‼︎とはおくびにも出さない。
「行ってらっしゃいませ」
終始、スマイルで送り出すのが私の仕事だから。
「桐島さん、ツインでご予約の佐藤様、ダブルに変えてほしいと」
「了解。そうだと思って部屋、押さえてあるから」
「さすが」
そう言って矢沢さんは微笑んだはいいが、その笑顔はすぐに引っ込んだ。
取って代わったのは、なんとも言い難い苦虫を噛み潰したような__。
どちらからだろう?
内緒にしておこう、そう言い出したのは。
誰にも秘密の恋は、燃え上がる。言葉の端々に感じる隠語にアイコンタクト、すれ違いざまに指を絡めたり、今思うと私も若かったものだ。でも別れた今となっては、誰にも同情されずに済むのは有難い。
たった一人を除いて__。
「桐島さん」
フロントを離れるとすぐ様、矢沢さんから声が掛かった。
振り返ると__矢沢里志は、さっきと同じ今にも泣きそうな顔をしている。
「本当に申し訳ない」と言う。3年間の付き合いの後、平凡だけど心が満たされた結婚生活を送り、マイホームやら子作りやらを夢見ていた同僚の三十路女を、なんも前触れもなく、好きな人ができたから別れてほしいと切り捨てた、一つだけ年下の男。
一つだけ年下だったのだ。
だから私は、年上女の余裕を醸し出さなくてはならず__。
「仕方ないじゃない」
サラリと言いのけた。
誰も待っていない部屋に帰り、さらっとかきこめる出汁の効いたお茶漬けみたいに。
さらさらっと__。
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