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ある一つの世界の小さなお話
「ここじゃない世界って、どんな世界なんだろう」と、遠い空を仰ぎながら彼女は言った。
それはもう十二年も前の話で、八月に入ったばかりのこと。陽炎立つ正午。照りつける太陽はアスファルトを焼き、ジリジリと鳴くヒグラシはとても煩く、吹き付ける風さえも生暖かい。まるで灼熱地獄の中を歩いているように思えた。
丁度、その日は快晴だった。
清々しい程に空は滄溟で、雲の一つもなく、気温は三十度越え。ただ普通に歩くだけでも運動不足のこの体はすぐ疲れてしまうというのに、この暑さではたった十分足らずで倒れてしまいそうだ。
その上、湿度が高いせいで心地の悪い空気が全身に纏わり付き、汗の一つとして出やしない。勿論、汗臭いのよりはマシなのだが。
ただ、だからこそなのだろう。
今でもその日の記憶は、どんな記憶よりも淡く、美しく、何よりも輝いていた。
例えるなら、写真や動画とは違う。それは、水面に反射する風景のようなもの。一番相応しい物と言えば––––水彩画だろう。
水で滲んだ色の数々が重なり、境界線は歪。目に映るもの全ての輪郭は繊細な毛筆で描かれたようにぼんやりしている。ただ淡さと鮮やかさだけが残る情景なのだ。
そして、その中央にはいつも彼女の後ろ姿があった。常に僕の前を歩き、後ろで腕を組んで、この世の何もかもを知っているかのように話す。時折見えるその横顔はとても綺麗で、同時に、何処か悲しそうだった。
木陰の落ちる道を二人で歩く。
身長も違えば、足幅も違う僕らは、互いに同じペースで歩くように心がけ、暑さを紛わすかのように駄弁っていた。
「ねぇ、ここじゃない世界ってあると思う?」
「うーん、僕はあまり信じられないな」
「そっか」
レースのロングスカートを揺らし、機嫌良さそうな足取りで歩いて行く彼女を追いかけるように歩く。
「『シュレディンガーの猫』って聞いたことある?」
「いや、ないかな。……有名な猫の名前、とか?」
「違うよ。実験の名前」
「実験?」
不思議そうにしている僕を見て、彼女は少し悪戯な笑みを浮かべながら、語り続ける。
「そう。『外から何も見えない箱の中に入れた猫は生きてるか死んでるか』っていう実験だよ」
「ふーん。それと、別の世界って関係があるの?」
「それはね……」
ふと、僕らの前を黒い毛並みの猫が横切った。
気怠そうにゆっくりした足取りで、道路の向こうへと渡ろうとしている。
偶然、なのだろうか。ただ、少なくともその時の僕らにとっては、そうは感じ取れなかった。
「こっちおいで」と言いながら、彼女は左手を差し出すと、その猫はこちらに気づき、ゆっくりと近寄って、注意深く匂いを嗅いだ。
野良猫にしては珍しい方だろう。大抵は逃げ出し、姿を隠してしまうはずなのだが。
「……この猫を外から見えない箱に入れて、毒の入った餌と普通の餌のどっちかが、ランダムで箱の中に入れられるとする」
すっかり懐いてしまった野良猫は彼女に抱き上げられた。しかも、腕の中で喉元を撫でられ、グルグルと喉まで鳴らしている。
「そしたら、この箱の中の猫って生きてるのかな? それとも、死んじゃってるのかな?」
今度は猫の顔を自分の前に置き、そんなことを言いながら、ひょっこりと横から顔を出す。そんなことをされても動じない猫も猫だが。
「それは……分からない」
「そう。生きているか、死んでいるかは中を見てみないと分からない。そもそも餌が出ていたとしても、食べてないかもしれない」
頭をわしゃわしゃと撫で、顔をそっとさすると「強く生きるんだよ」なんて言って、猫を下ろす。
「つまり、箱の外にいる私たちの未来は猫が生きている世界と、死んでいる世界に別れるの」
「あー、まぁ確かに」
「それが別世界。猫が生きている世界なら、きっと猫は里親が見つかって、可愛がられる。死んでいる世界なら、何処かにその猫のお墓が出来る。それだけで十分別世界だと思わない?」
下ろされた猫は、彼女に向かって目を細め、グルグルと言いながら足に擦り寄って来る。だが、そのまま彼女の前へと行き、立ち止まると、お礼でも言うかのようにゆっくりと瞬きをして、何処かへと消えて行ってしまった。
「だからね、よく考えるんだ。私が生きてるこの世界と、私が生きていない世界。それってどう違うのか、ってね」
顔を上げ、空を仰ぎながら、そんなことを呟いた。
その姿はやっぱり綺麗で、また、如何しようもないような儚さを小さな身体の奥底に秘めているようにも見えた。そして、彼女の目は遠くを、ずっと遠くを、見つめていたのだろう。
「あ、そうだ。そろそろお昼でも食べない?」
「うん」
「私、行きたいところがあるんだよね」
「じゃあ、そこ、行こうか」
そんな会話を交わし、熱気を帯びたアスファルトの上を歩く。
住宅街の抜け、車通りの多い道を横切って、居酒屋が立ち並ぶ通りを横目に、部分だけ都市化した駅前を通り過ぎる。陸橋を渡り、レトロな雰囲気のある商店街を抜けて行った。
他愛もない話を始めて一時間ほど経ち、空腹も限界寸前になった頃、ようやく到着。
人気のある店だとは聞いていたが、ピークを過ぎていたらしく、案外あっさりと入店し、ゆっくりとお昼を食べることが出来た。
「うーん、最高」
「そうだね」
「一切れ頂くよ」
「ちょっ、俺の取るなよ」
「良いじゃん別に」
やっぱり楽しい。
食べ終わると、折角街の方へ出て来たんだからと彼女は言い、総合型アミューズメントパークのある建物に入って、ゲーセンで思い切り遊んだ。勿論、数枚あったはずの千円札は全て思い出へと形を変え、財布の中から消え去ってしまったが。
「じゃ、帰ろうか」
「そうだね」
今日一日で感じた楽しさは未だに余韻として全身を巡っている。
ふと気付いた頃には、時計の短針が六の数字を指ており、焼けていたはずの空も気付けば闇に染まっていて、もう西の地平線付近にしか茜色は見えなくなってしまった。
そんな景色を背中に、来た道を歩いて戻る。ただし、向かう先は駅だった。
「ねぇ、また今度も遊びに行く?」
「……僕は良いよ」
「それじゃあ、決定だね」
会話を交わす僕らの間に風が吹き抜けた。
僕と彼女は、恋愛関係という距離にはいない。あくまで、友人、クラスメイト、幼馴染み。ただそれだけなのだ。
「ねぇ」
「何?」
「私達、これからどんな世界に生きていくんだろうね」
けれど、お互いに居場所を持つことを許されず、孤独になり、はみ出して、そんな中で生まれた『依存』した関係なのだ。
「分からない」
「この先、どれだけ世界は枝分かれして、どれだけ決断を迫られ、どれだけ可能性の芽を摘まなきゃいけないんだろう」
「……分からない」
そして、多分僕らはそれ以上もそれ以下も求めていなかったのだろう。
「ねぇ、一つお願いして良い? 一生に一度のお願い」
ただ、それがよかった。それでよかった。
「はぁ、これで何回目の一生に一度のお願いだよ」
「良いじゃん。それで、聴いてくれるの?」
「……分かったよ」
そのはずだった。
だが、時間が僕らを変えてしまった。一緒に居た時間があまりにも長く、長過ぎてしまったせいで。
「動かないで、目を瞑って」
日は沈み、上った筈の月は薄暗い雲に隠されてしまっている。
吹き付ける風は冷たい。
「分かった」
そう言って、目を瞑る。
刹那、唇が重なった。
––––初めてだった。
あまりにも突然のことで、何の構えも出来ていなかったし、心の準備や覚悟の一つもする間も無かった。
なのに、僕は妙に落ち着いていたのだ。
たったの数秒さも長く感じ、一瞬過ぎる度に、力んでいた全身は徐々に相手へと委ねられていく。
そして、伝わって来たのは、恐怖と悲しみの味と、彼女の温度だけだった。
「……じゃあね」
唇を離し、震える手で僕の肩を掴んだまま、涙でグチャグチャになった笑顔を浮かべた。
そして、もう一度唇を重ね、自分の温度を押し付け合う。
そんな彼女を、その時は抱きしめることしか出来なかった。
それ以来、彼女は僕の前から姿を消した。
いつもの待ち合わせ場所からも、よく通っていたコンビニからも、教室からも、学校からも、この街からも、そして、僕の世界からも、消えた。
だから、僕は、彼女の名前が分からない。
覚えているのは、あの日の温もりだけ。
そして、ずっと考えるようになった。
「ここじゃない世界って、どんな世界なんだろう」
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