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南条道彦がなにかを呟いた。長男の一男が口元に耳を寄せて、静かにうなづいた。
「夏央、お祖父さんと話しなさい」
夏央は南条道彦の次男の敏也の子だ。夏央はなぜ本家の内孫でもない自分だけが枕元に呼ばれるのかを不思議に思いながら、さらに一男叔父の息子たち――内孫――に対して申し訳なく思いつつ、祖父の道彦の枕元の椅子に腰掛けた。夏央は畏れながら祖父の口元に耳を近づけた。
「おまえも三十二歳か」
夏央は、高齢の、しかも危篤となった祖父が、三十人からいる孫の中のひとりに過ぎない自分などの正確な年齢を把握していることに、まず仰天した。
「は、はい」
夏央は姿勢を正してうなづいてから、再び耳を寄せた。
「おまえに、託す。書斎だ……本棚の……を見ろ。夏目だ。夏目漱石の……を読め。読んで記憶に刻んだら……焼き捨てよ。必ずだ。必ず焼いて灰にしろ。あれを形に残すな。だがおまえはそれを記憶して忘れるな」
南条道彦は、さらになにかを語ろうとしたが、それを果たせず目の動きを止めた。瞳の光が目に見えて薄らいでゆく。
医師が静かに動いた。やがて医師は腕の時計に目線を落とした。
「十六時五十八分。ご臨終です」
医師の、厳かだが平淡な声が、夏央の耳を素通りしてゆく。
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