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chapter 2_2
母親は物心ついた時から家にいなかった。だから母親の顔は覚えていない。父親に至っては、顔より、拳の形の方が記憶に残っている。
オークランドに生まれた僕は、酒飲みでヤク中のクソッタレな父親に育てられた。無口で友達もできなかった僕は、毎日孤独だったことを覚えている。年中クスリでハイになっていた父親は、毎日のように僕を殴った。
ただ殴られる日はまだ良い方で、酷い時には、僕を壁に縛り付けてハイネケンのボトルを1ダースほど投げつけた。おかげで僕の右の眼球は破裂し、脳と内臓に重篤な障害を負った。致死量ギリギリのクスリを打たれて、オーバードーズで死にかけたことなど数え切れないほどあった。
そんな、いつ死んでもおかしくない生活が三年ほど続いたある日、あっけなく父親は死んだ。ギャングのクスリに手をつけて撃ち殺されるという、どこにでも転がっているゴミみたいな最期だった。
孤児院に入れられた僕は、そこでも孤独だった。一言も話さなかったせいか、みんな僕を気味悪がり、誰にも話しかけられず、誰とも仲良くなれないまま日々を無為に過ごしていた。孤児院の職員たちも必要最低限の接触以外、僕に関わろうとしなかった。
あの時の僕は、死ぬのを待っているただ呼吸をして、ただ血が循環しているだけの腐った死体だった。
そんな日々もある日唐突に終わりを迎えた。孤児院にRHカンパニーの職員がやってきて、僕ら孤児にコードのたくさんついたヘルメットをかぶせ『テスト』と称し、銃を撃たせたり、色々な映像を見せられたり、たくさん注射を打たれたりした。
その『テスト』が何を意味するのか解らなかったが、孤児院内で唯一、僕だけが『適正アリ』見做され、僕の身はRHカンパニーに置かれることとなる。
のちに聞いた話によると僕が『適正アリ』と判断された理由は過去に負った脳の障害によるものだと聞かされた。
● 平均より高い知能指数
● 極度の共感性欠乏
● 如何なる状況下においても感情変動の兆候ナシ、等
カウンセリングを終えた僕は、全く酔いの回っていない頭を抱えながら、腹の底に深く沈殿している不快感をどうにか取り除こうと、眼についたパブの奥を陣取り、ビールを呷っていた。もう三杯目だ。
初めて入ったパブだったが、落とされた照明と、少しさびれた内装が妙に落ち着いた。
壁に投影されたスポーツ中継をぼんやり眺めていると不意に右肩を小突かれた。反射的にそばにあったフォークを手に僕は立ち上がる。
「おいおい。そんなに驚くことないだろう。随分久しぶりじゃないか」
そこに立っていたのは筋骨隆々の黒人の大男だった。
「誰だあんた」
僕は酔っ払いに絡まれたと思い、威圧的な態度で彼の言葉に応える。フォークを握る手に力が入る。
「なんだ、酔ってるのかクリス。はっはっは、こんな所で会えるなんてな。今日は良い日だ」
力任せにハグしてくる大男の力は思った以上に強く、振りほどけない。そのおかげで僕はむさ苦しい男の胸板の中で反論するしかなかった。
「僕の名前はクリスじゃない。離してくれないか」
僕がそう告げると、大男はあっさりとその手を離し、僕に謝罪してきた。
「あれ、あんた、クリス・アビオットじゃなかったか。いやぁ申し訳ない。つい何年も会っていない友人にそっくりだったものだから」
「ここには、今日初めて来た」
「そうか。悪かったな、お詫びに一杯奢られてくれ。隣いいか?」
答える間もなく、僕の隣を陣取った大男は注文したビールを一瞬で飲み干した。あまりに豪快な飲みっぷりに、僕は眼を丸くした。
ピーター・ダモンドと名乗ったその大男は愉快な奴だった。ピーターが僕に良く似た友人、クリス・アビオットに出会ったのは、五年ほど前のことらしい。地質学者の彼が出張で訪れていたロシアのバーで出会ったらしい。
その時の話が実に興味深く、別れた際、連絡先を訊いておかなかったことを酷く後悔したそうだ。クリスは物理学者を名乗り、その分野に興味のあったピーターとタイムマシンと時間軸について熱い議論を繰り広げたという。ピーターはとても話が上手く、僕は久しぶりに笑った。作った笑顔以外で笑ったのは随分久しぶりだったようで顔の筋肉のいたる所が痛んだ。不思議と心地よい痛みだった。
あの頃に比べたら少しは人間らしくなれたのか。
アパートに戻った僕は、定期的に襲ってくる頭痛に頭を抱えながら、手に持ったオレンジ色のピルケースを片手に、そう呟く。精神安定、記憶保持、感染症予防、頭痛薬、その他、様々な効果を持つ薬が一緒くたにケースの中に入れられている。その量は、およそ一回分とは思えないほどだった。
僕は、それらの薬を一気に胃に流し込み、タバコに灯をつけた。頭上にのぼっていく紫煙を眺めながら博士の言葉を思い出す。
「何かを思い出そうとしている」
一体何をだ。忘れたいことなら山ほどあるのに。
耳に残るその言葉に苛立ちが募る。ふと手元に眼をやると、僕の手は血が滲むほど強く握られていた。慌てて手を開く。掌に食い込んだ爪の痕からじわりと血が滲む。
ゆっくりと紅く染まる掌を見て、気持ちが落ち着いていく。理由は解っている。毎日、父親に殴られ続けていた子供の頃、僕の顔が血で真っ赤に染まり、口の中が血の泡で溢れると父親は殴るのを止めた。視界を取り戻そうと自分の顔を拭い、手についた血を見ると、今日はもう殴られなくて済む、と安心した。
だから、今でも自分の血を見ると心が穏やかになる。孤児院時代は心が不安定になると、よく自分の腕を傷つけていた。痛みを求めていた訳ではなく、血を見るために。
すっかり傷の無くなった腕を見ながら僕は笑う。消すことのできない、魂に深くこびりついた呪いのような習性を、酷く自嘲的に。
薬が効いたのか、いつの間にか頭痛は少しやわらいでいた。
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