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chapter 1_1
ここに来た時には晴れていた空が雨に変わり、しとしとと屋根を叩く雨音が耳に届く。
やはりイギリスは雨が多くジメジメしている。気の抜けない仕事中にそんなことを考える。
雨は嫌いだ。持病の頭痛が酷くなる。
ーーFrom A.D.2021_England-Oxford
綺麗に整頓された研究室にカチコチという時計の音が響いている。
次いで訊こえてくるのは呼吸音だ。
恐怖が入り混じる浅い呼吸。そして早い鼓動。
無言で、静寂と言われる時間が続いても、世界は決して真の無音にはなりえない。生きるとは常に音と共にある。
これは先日、僕のカウンセラーが言っていた言葉だ。
「助けてくれ‥か、金ならないぞ」
こめかみに銃口を押し付けられ跪いた男が、やっとの思いといった様子で、そう絞りだす。なんともありきたりの命乞いをするこの男の名前は、ドクター・ノーマン・オーウェル。
彼は決して馬鹿でも、頭が悪いわけでもない。むしろ、天才の部類に入る人間だ。MITへ飛び級で入学し、現在オックスフォードに自分の研究室を持ち、今まで架空の存在だったナノマシンの実用化研究をし、その道の第一人者として名を馳せている。即ち、賢さと語彙の豊富さは比例しない。これは僕の経験則だ。
仕事柄、天才と呼ばれる人間と関わる事が多いが、彼らだって只の人間だ。この穏やかな日常がいつまでも続くと無意識に思い込んで、信じ込んでいる、只の人間だ。
その日常が予告もなしに急に脅かされたら、誰だって頭が真っ白になる。誰もが今日が人生最後の日だと思って生きてはいない。無条件に明日が来て当然だと思っている。
まともな人間であればその思考は正常だ。だから毎回ありきたりな命乞いをされたところで、哀れには思わない。
「頼む‥殺さないでくれ。私がなにをしたっていうんだ」
僕があれこれ考えているとドクター・ノーマンが唸るような声で言う。
それはそうだ。自分がとった如何なる行動言動がこの状況を引き起こしているのか、その原因を知りたいと思う思考は十二分に理解できる。本人が納得できるかどうかは別として。
僕はその質問に答えることにした。
「何もしていません。いや、正しく言えばこれからするんです」
「一体何を言っているんだ。意味がわからない」
「わからなくて結構です。理解させる為に言っているんじゃありません。事実を言っているだけです。ドクター・オーウェル。二十年後あなたは革新的な医療ナノマシンを開発し、ロンドンでナノマシン会社を設立。ナノマシン市場を独占する。それこそ、他国の参入する隙を与えないくらい、世界はあなたの開発したナノマシンで溢れかえる。その技術が、我が国には必要なんです。が、あなたの存在は必要ないんですよ」
「ハイになっているのか? 知り合いに腕の良い医者がいる。紹介しよう。だから、いい加減に銃をおろしてくれないか」
ドクターの眼から恐怖の色が薄くなり、哀れみの色が濃くなった事からも、どうやら本気で僕をジャンキーと思ったらしい。心外だ。
「ドラッグはやっていません。僕は随分前からクリーンだ」
そう言うと、ドクターはふと何かに気付いたような表情になる。その顔は急に血の気を失ってゆく。それは、この状況に対する恐怖ではないことは、博士の表情から明らかだった。
「ブルーノ? 君はブルーノ・オリオラスか?」
訊き覚えのない名前だ。知り合いの名前か。それとも、適当な話をして僕の隙を伺っているのか。だが、ドクターは僕の眼を真っ直ぐに捉えていた。微表情を読んでみても、嘘を言っているとは思えない。
「知らない名ですね。どなたかと勘違いされているのでは」
僕は素直にそう告げる。
「‥そうか。それは失礼した。ところで先ほどの話だが、そんな話、到底信じられない。技術提携の話だとして、私のナノマシン技術はまだ実用段階には程遠い。もし君の言ったことが本当だとして、どうして君がそれを知っている。まるで二十年後の未来から私を殺しに来たような口ぶりじゃないか。タイムトラベルだと。そんなもの、妄想の産物だ」
「妄想ではないですよドクター。現実です。僕は未来から任務で来ました。未来から、あなたの研究成果を貰い受けに。そして、あなたの存在を無かったことにするために。最後にいいことを教えてあげます。二十年後には時間跳躍技術が開発されているんです。ご参考までにその技術は、『ハーバート』と呼ばれています。ワオ、ドクター、あなたは今未来を知りましたよ」
大袈裟にはしゃいで見せながら、僕は銃の引き金に力を込める。銃がカチャと軋む。
「待て。待ってくれ。信じる。信じるから殺さないでくれ。家族がいるんだ。頼む」
博士は身を起こし、僕から距離を取るため、勢いに任せて、机に背中から突っ込んだ。机の上に置かれていたものが、大きな音を立てて乱雑に床に散らばる。リモコンが落ちた拍子にオーディオ機器のスイッチを入れたらしく、陰鬱な音楽が部屋中に立ち込める。
辛うじて、The Drunkk Machine という歌詞が訊き取れた。
「信じようが、信じまいが、結果は変わりません。あなたが生きていれば世界は変わってしまうんです。それは、みんなが望む世界ではない」
「さようなら。ドクター・オーウェル」
「ああ、神様、神様どうか助けてください。神さ‥」
ぱんっ
研究室に響き渡る乾いた破裂音が、ドクターの言葉を遮る。無機質な黄緑色の壁に、血と脳漿が勢いよく叩きつけられる。それと同時に、制御の失ったドクターの身体は、自然に、不自然な形で床に倒れこむ。
人間の最初と最期の行動はだいたい似たり寄ったりになるーー少なくとも僕が人生を終わらせてきた人達はーー最初の行動は産声をあげ、最期の行動は神に祈る。それは無意識から来る反射的行動なのか、それとも本当に神様の救済があると思っているのか。どちらにせよこの現象は、とても興味深くてスピリチュアルなことだと思う。何か見えない糸みたいな意識で、人間が繋がっているのかと錯覚するくらいに。僕は無神論者だけど、最期の瞬間には神様に助けを求めるのだろうか。そんなことを考える。
手早く後処理を済まし、ドクターの研究データをコピーし、マスターデータを消去する。コピーが終わるまでの待ち時間で僕はタバコに灯を点ける。煙を吐き、壁に眼をやると、さっき飛び散った血飛沫と脳漿のシミが目に入る。それは壁との色合いも相まって、ダイナミックなペイントアートの様に見えた。
見る人が見ればこのシミは前衛的な芸術に見えたりもするのだろうが、残念ながら僕は芸術に造詣が深くない。だからそのシミを美しいとは思えず、只の汚い、グロテスクなシミにしか見えなかった。スピーカーから流れ続ける陰鬱な音楽も、僕の芸術性を刺激する役を買って出てはくれなかった。
今回の仕事もいつもと変わらない。何も特別なことは起きない。世界は正しく廻っていて、僕は元気だ。
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